死星の森 -SISEI NO MORI- ![]() 「嫌やったら嫌や!」 最近、恒例になった騒ぎ声は廊下の向こうで響いてくる。 合間に、小石川の「お前ら、当主の部屋の近くで騒ぐな!」という声。 あれで、実は財前は世話を焼くタイプらしい。蔵ノ介が自分の目に狂いはなかったと笑う。 「…千歳?」 「…、ん?」 一瞬、あらぬ虚無を見つめていた千歳はすぐ、蔵ノ介に視線を戻して微笑んだ。 優しい、眼差し。慈しむ以外の言葉なんて、当てはめられない。 『助ける』 優しい、願いだ。 祈りだ。 彼が、そんな風景を自分に見せてくれるようになってもう何年だろう。 思い出せないほど、昔の出来事。 思い出せないのは、昔のことだからだ。自身の薄情の所為ではないと、蔵ノ介は咄嗟に思った。 「蔵ノ介?」 呼んだ癖、なにも言わない当主に、まさか具合がまた悪いのかと千歳はすぐ不安げにする。 違う、と笑ってやるが、すぐ咳が口を吐いたので説得力はなかった。 「……、懐かしい、な」 「え?」 いぶかしむ千歳が自分の背中をさするのに、合わせて声にした。咳がうるさい。 「嫌、とは言わなかったな…。お前は」 「…、逆らえんけん」 すぐ、なんのことか悟って千歳はそう答え、「お前の世話役になったこつ、俺はよかったと思っちょるよ」と言い直してくれた。 わかった。わかっている、と答えた。 あれは、何年、何百年、何千年昔だったか。 先代当主の寿命の折り、蔵ノ介が次期当主ということは周囲にも一目瞭然だった。 そんな中、自分に興味がなさそうに、血塗れた眼しかしない存在がいた。 千歳千里 健二郎も、俺も、とりわけ騒ぎもしなかった。珍しくはなかったからだ。 古株の先輩たちは言う。「俺達の世代にもいたで。おるおる! いつの世代にもああいうヤツ!」。死神の恒例みたいなものだ、と言う。 一つの世代に一人は必ずいる、問題児。 死神としての己を、世界を認めず、疎みキレやすい、そういう存在。 死神は人として生まれる。だが、人ではない。だから、他に行き場はない。 だから、やむなく集まり、けれど、死神の役目に染まることも従うこともしない。 千歳は特に、厄介だった。死神の仕事は魂の回収。人殺しではない。 死んだ身体から魂を回収するだけ。死んだのは、寿命や、他の要因。 けれど、千歳は片っ端から殺して奪ったし、邪魔する仲間にも手を挙げた。 手がつけられない、常にキレた顔と眼をした、殺伐とした空気のヤツ。 でも、俺は気にしていなかった。 だって、無関係だ。親しいわけじゃない。大事でもない。だから、別にいい。 自分でヤツが損をすることをしているヤツなんか、どうでもいい。 「世話役は、小石川かい?」 先代当主にそう聞かれた時、自分は素直に頷いた。 傍にいた小石川が嬉しそうに笑った。そう決めていた。 健二郎以外にいない。仲のいいやつは多いけど、健二郎は特別。 同世代の中でも、特別。 だって、俺は人だった時から、健二郎を知っていた。 同じ街に生まれて、同じ学校に通って、人であった頃に沢山話した。夢や、未来を知らずに。 同じ絶望に、同じ時にぶつかり、どれだけ救われただろう。 仲間が死神だからだと教えてくれる前、何故死なないのかと恐怖に沈んでも、気付けば健二郎の手があった。同じ、場所で悩む仲間が、俺にはいた。 健二郎がいた。だから、世界を憎まずに済んだ。 「健二郎」 「ん?」 箒を片手に顔を上げた健二郎が、傍に近寄って、隣に座る。 「なんや蔵ノ介。緊張してきたんか」 「そーやない。つか、不謹慎やん」 「…まあ、そうやけど」 当主交代は、先代の死。悲しむ先輩がいる。 「…せやけど、…他人事やのうなるしな」 健二郎はそう言って、俺の手を握った。 当主は、同じ世代の仲間より、五百年は早く死ぬ。 当主の一族のための力は、一族を守る。同時に、当主の命を縮める。 自分も、健二郎より早く死ぬだろう。 「……まだ、遠い未来の話や」 「そうやな。まだ、遠い…」 俺の手を握る、手が強くなった。 風が葉を巻き上げていく。不意に重なった視線。静かに手を肩に回した健二郎の視線に、促されるように目を閉じた。重なった唇は、確かにキスだった。 でも、それが、今思えば最初で最後の、彼とのキスだった。 世話役は健二郎だと、疑っていなかった。 けれど、気にしたら、どうしようもなくなった。 千歳。 もう、気にしないじゃ済まない。当主になったら。 彼とも、向き合って話をしなければならない。 立ち直らせるために、理解らせるために、どうしたらいい。 一度、一つの方法を見つけたら、最期だった。 当主が死に、新しい当主のお披露目が行われた日。 一族全てを集めた、庭に面した座敷。 「最後に、俺の世話役を言っておく」 自分を見つめ、信頼しきった顔をする彼がいた。 ごめん。健二郎。なにも、言わずに、裏切る。 一言、先に謝れば良かった。 目を伏せ、すぐ開けて指をすっとさした。 そこに立つのは、彼じゃない。巨躯。千歳。 「千歳千里。お前が俺の世話役や。わかったら、はよ来ぃ」 「……!」 全員がざわめいた。中でも強い、「何故」という視線が二つ。 健二郎と、その千歳。 気付かぬふりで背中を向けた。 更正といえば立派だが、俺は危ないヤツは自分の目の届くところに置きたかっただけだ。 その時は、それだけだった。 かたん、と湯をかけたあと、着替えを取るために戸を一度開けてから、千歳は遅蒔きに気付いたように自分を見た。 当主の世話役なのだから、湯浴みの世話も当然するが、彼は表向き、反感も敵意も、文句も示したことはなかった。 「なんや」 「…いえ、…寒かったかと」 「そんなことか。…てか、敬語寒いわ。やめぇ」 「……別に、面倒くさいわけじゃなか」 布を自分の肩にかけ、湯を拭う手。大きくて、違う。健二郎じゃない。知っている。 「お前、どこの生まれやったっけ」 「…?」 「…言葉」 「…日本の、南の」 「ああ…」 「おかしか?」 「は? なんで? お前からしたら、俺の言葉が気味悪いやろ? そんなん普通や」 「…………」 「…千歳?」 不意に、振り返った先、千歳は微かに笑って「それもそうばい」と呟いた。 「当たり前や。…俺もお前も…同じや」 「…そうやね」 生まれなんか関係ない。ただ、同じような道を辿り、同じような絶望があった。 そこでどう誤ったかは、本人しかわからない。間違った、間違わなかったじゃない。 ただ、同じ仲間だ。だから、わからないなら、わかればいい。 何故、古株の先輩が焦らず「俺らにもいたいた」なんて、問題児を片付けるのかわかった。段々、わかっていくから。段々に、自分も相手も、理解していく。お互いを知っていく。わかりあえたのに、わからないなんて馬鹿はいないって、信じてる。 逆らいはしなかったが、素直に従っているとも言い難い千歳の態度が軟化したのは、いつだっただろう。 優しくなったのは、瞳に、名を呼ぶ声に暖かみが生まれたのは。 「千歳」 「…ん?」 「…頼む。聞いて、くれるか?」 千歳が戸惑った後、わかったと頷いた。 「俺の、」 コレは、俺の我が儘。 「魂、お前が回収してくれるか?」 言った瞬間、千歳は声を失って、顔色からも暖かみが消えた。 それでも最後まで言ってしまいたかったのは、ただの意地か。 いや、多分そうしないと俺が堪えられないからだ。 今、言わないと言えなくなる。 だって、もう。 お前がなにか言う前に全部吐き出さなきゃ、俺はきっと気付いてしまう。 そんなの、いけないんだ。 「もし、俺が、意識がのうなったままになったら、お前が殺してくれ。 お前が終わらせてくれ。 お前の声でも、起きないなら、…頼む。 その手で、目を伏せてくれ」 当主は必ずしも、すぐ息絶えるとは限らない。 長命であるが故、意識を失ったまま何年もそのままを保つものも少なくない。 だから、終わらせて欲しい。 一族のために、早く。 俺を。 「千歳…?」 まるで初めてみたいに彼から伸ばされた手で、引き寄せられた。 胸元に抱き寄せられる。 大きな手が何度も背中を撫でて、彼の唇が自分の肩に埋まった。 その唇が震えていることが、肩越し、伝わる。 気付かぬふりをして、呼んだ。答えはなく、ただ、背中を撫でた抱きしめる手を離さない身体。 千歳に、あげたかった。 なにかを、俺が遺せるものを。 そう言ったら、頭をきつく抱かれて、彼の手が触れた首筋になにか暖かいものが落ちた。 涙だと理解して、俺はやっと理解する。 あの日、寿命を告げられた日。 やっと気付いたんだ。 振り返ると、俺より不安げに、泣き出しそうにした。自分を見た。 その手が、初めて俺を抱きしめた。 震えていた。 「……千歳」 零すと、より強く抱かれた。 「……離さんで…抱いててぇや……。ずっと、ここにおって…」 一人になりたくない。眠った後、目覚めないまま、死んでしまったら。 最後に見るのは、お前がいい。俺が死んだ時、一人にしないで。 お前が、抱きしめていてくれたら。 「……おるよ。…ずっと」 あの日、叶ったというのなら、同じことを願う。 『もっと、早く…若いうちに…わかっとれば、大事がってればよかった。俺じゃ、遅い』 俺も、そう思う。千歳。 千歳の様子がおかしく見えたのは、自分の後を、中継ぎを任せてから。 彼に大事がられているとやっと気付いた。 気付きたくなかった。 当主だから。 当主のまま死なせてくれ。 思いを、遂げられる筈ないんだ。 …許して欲しい。許して欲しい。どうか。俺の、心。 →NEXT |