死星

-SISEI NO MORI-






 



 ずっと、ずっと会いたかった。

『謙也』

 優しく俺を呼ぶ、易しいひと。



 庭に出て、空を見上げているとあの財前が傍に歩み寄ってきた。
「逃げへんし」
「そんなんわかるわ」
 月が見える。今日は満月に近い、でも、欠けた月。
「…当主が、当主になる前に拾ってきたんか」
「…お前の話からしてそうなんやろ」
 自分はあのひとがいつ当主になったかも、知らなかった。
「…戦争」
「え?」
 ぽつりと呟くと、財前が顕著に反応してこちらを見た。
 見遣ると、なるほど、自分よりはまだ幼い顔だ。でも、自分より死神らしいヤツ。
「…戦争が住んでるとこで起こったんや。ミサイルとか空から降ってきて。
 それまで、自分がおかしいなんて知らなかった。誰も気付いてへんかった。
 やのに、炎の中で、みんな死んでる中で、俺だけ死んでへんねん。無事やねん。
 ミサイルが傍に落ちたんに……」


『たまに、いるんや。一番悲惨な形で死神やって知るヤツ。一番悲惨なタイプ。
 多くは戦争やな。戦争の中でも死なへんて、おかしいんやて、わかるタイプ』


 小石川が前に言っていた。謙也のことじゃないかもしれない。前にもいたのかもしれない。
 もしかしたら、千歳のことだったのかもしれない。
 でも、それは、辛い。自分は、幸運だったのだ。
 日常の中で、ゆっくりと自覚した。


「あのひとが、同じように、炎の中で平気なかおで、『おいで』て手を差し伸べてくれた。
『俺だけやない』って、『俺もおかしい』って、『同じや』って……抱きしめてくれた」
「…………」
「……助けられへんの? あのひとは……」
 なにも、答えられない。財前には。
 皮肉な促し方。こんな促し方はないだろう。
 やっと前を見始めた。でもそれは、たった一人、大事な人の死が代償。
 手を伸ばして、渡殿に置かれた謙也の手を握った。彼は驚いた顔で自分を見て、すぐ前を向いた。気付かぬふりで、握られた手から力を抜く。
「…俺が、おるし」
「え」
「…あんたには、俺がおるやろ。少なくとも、あんたより長く、生きて…」
 自分じゃ代わりにならないと知っている。わかっている。
 わかった上で言った財前の横顔を見て、でも謙也は『ならない』と言わなかった。
「…なまえ」
「え?」
「俺、お前の名前、よう聞いてへん」
 自分を見ないで、前を見たままで、謙也は言った。
 それは、彼の最大限の歩み寄り。
「…財前、光」
「…ひかる」
 月は、雲に隠れないで、輝く。





 障子を開けると、月が見えた。
「…満月、…やないな」
「明日にはなるばい」
 腕の中で、蔵ノ介がうんと頷いて、小さく笑う。
 着物を着せただけのあまりに薄い身体を抱きしめて、その肩口に顔を埋めたら、蔵ノ介はおかしがることもなく、千歳の頭を抱いて髪を撫でた。
 白くて、細い、優しい指がゆっくりと髪を辿る。
「……千歳」
「ん?」
「…好きや」
「…俺もばい」
「……ありがとう」
「…こっちの台詞」
 するりと、髪を撫でる手が離れていって、不思議になって顔を上げると、そこには優しく、あまりに儚く微笑む顔があった。
「……頼むな」
「…蔵ノ介?」
「……約束、…俺の命、お前が…奪って」
 あまりにも、掠れた声が、それでも柔らかく紡いで、届く。
 微笑む顔が、そのままの残像を残して見えなくなる。
 自分の腕の中に、倒れ込んだ身体。胸元に触れた頭。
 閉ざされた瞳。床に落ちた、手。
「…………」
 わかっていた。
 いつか、こうなる日が来る。
 思いを遂げられただけ、幸せだなんて。


「―――――――――――――」


 思えっこない。





 当主の部屋から辞した医師を見送ることもなく、布団で眠る身体を見下ろした。
 握った手は、冷たくて、熱がない。
「…千歳」
 背後で、戸の傍に座る小石川が自分を呼んだ。
「……なん?」
「…、…」
 小石川は唇を振るわせ、なにか言いかけてすぐ俯く。首を左右に振った。
「…、部屋に、戻ってる。…みんな、自分の部屋に」
「…そう」
 当主を看取っていいのは、次期当主と、医師、世話役。
 千歳は世話役で、次期当主だ。
 でも、その横顔におかしい程、焦りはなくて。ただ、無感動に壁を見ている。
 心が壊れていやしないかと、心配になる。けれど、それ以上に、胸が張り裂けそうだ。
 医師は言う。「明日か明後日には、息を引き取られるでしょう」。
 もう、助からない。もう、その日が来てしまう。
 言えばよかった。格好つけないで、ちゃんと、好きだって。
「……小石川」
 堪えることも出来ず、涙を流した小石川を呼んで、千歳は初めて振り返った。
 笑っていた。それは優しい、彼のような笑みだ。
「蔵ノ介のこつ、頼む」
「……ちとせ?」
「そしたら、…傍にいてやってくれ。…生きて欲しい。笑ってて欲しい。
 助けられるなら。……例えそこに、俺がいなくても」
「……千歳?」
「頼む」と優しい声が託した。千歳が蔵ノ介の胸元に手を触れてすぐ、閃光が部屋を覆って見えなくなる。



 生きていて欲しい。

 笑っていて、欲しい。


 愛している。

 愛してる。



 お願いだから、どうか、もう少しこの世に止まっていて。キミだけは、どうか。




 そこに、俺はいなくても。






 閃光が消えた時、そこには変わらず眠る蔵ノ介の姿。
 でも、そこに千歳はいない。
 影形もない。
「……ちとせ?」
 小石川の声に、答える声はない。
 その声に反応したのか、蔵ノ介が目を開けた。うっすらと開けたあと、見開いて飛び起きる。
「当主! 起きたら…」
 その声など、聞こえないという顔で蔵ノ介は己の手を見た。そして、胸に手を当てた。
 首を左右に振って、部屋を見回した。千歳を探した。
 でも、いないと知って、瞳を揺らした。すぐ、涙が零れる。
「……逆が、あるんか」
「当主…?」
「こんなのが、あるか…」
「……」
「こんな不義理な、世話役がおるんか……」
 人間の魂では、不相応だった。
 ならば、死神の魂ならばどうか。
 千歳は自分の魂を自分で奪って、俺に注ぎ込んだ。
 自分の魂で、俺の命を繋いだ。
 成功だ。俺の躯は、もう、どこも痛まない。
「……お前が、…置いてくなや……っ!」
 手を握り合わせて、その手に額をこすりつける。
 名を呼んで、抱きしめてくれるあの大きな手はない。
 もう、いない。



 俺の代わりに、一足先にあの世を下って、帰らない。







 生きていたかった。
 死ぬのは怖かった。

 お前に会えなくなるのが、怖かった。



 笑えない。千歳。


 お前のいない世界で、俺は笑えない。







『俺は、お前を失って笑えんよ』ってこんなに残酷に教える。


 非道いお前が、好きだった。










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