死星の森 -SISEI NO MORI- ![]() 当主の命日はおそらく、明日か明後日だと、聞いた。 会いに行くとごねるかと思った彼は、おとなしく部屋の畳の上に座り、膝を抱えていた。 「当主を看取って良いのは、世話役と次期当主」という言葉を、彼は記憶していた。 財前には、謙也にかける言葉はない。見つからない。 自分は、ほんの少し前に顔を見たばかり。「当主」以上も、以下の側面も知らない人。 悲しみはある。けれど、「当主が亡くなる」以上のなにを嘆くことを知らない。 「仲間が」「親友が」「大事な人が」亡くなるということではない。自分は違うんだ。 所詮、ただの一人の一族の新米。「当主」は「当主」で、それ以上でも以下でもなかった。 謙也は、違う。謙也にとって、当主は「当主」の前に「拾ってくれた恩人」「優しい人」。 「世界に出ようと思えた存在」。 たとえば、暗闇に差し込んだ真っ直ぐな光そのもののような、存在。 それを頼りに、必死に歩いて、やっと光の元に出られた瞬間、太陽が消滅して、眼前には完全な暗闇の世界。 多分、そんな、気持ち。 言葉なんか、浮かばない。 鼻を擦った時、数枚向こうの戸が開いて、途中の部屋の先輩たちの騒ぎ声に我に返る。 その中に「当主」という声がある。まさか、とうとう亡くなってしまったのか。謙也もそう思ったのだろう。青ざめきった顔をあげて、声のする方角の戸を向く。 それが開いた。そこに立つのは、あの時、端近にいた姿。自分に微笑み、「謙也を頼む」と言った人。 「……と、うしゅ?」 「……謙也を、出してくれたて聞いたからな」 当主はにこりと笑って、茫然としたまま一言もない謙也の前に軽くしゃがんだ。 「俺を待ってたて聞いた。光に」 「…。………、はい」 「ごめん。来れんようになった」 「………」 謙也は左右に首を振って否定した。それから、おそるおそるの口調で、必死な顔で問いかける。 「……お身体…は」 「大丈夫。今にも死にそうに見える?」 にこりと笑った当主の頬には赤みがあり、手の白さも病的ではない。 なにより、生気が感じられる。瀕死ではない。瀕死の生命の見せる、はかなさはない。 「いいえ」 「…それより、出てすぐ、出られるか? 仕事」 「…」 謙也にとって、当主が生きている以上のことはなく、彼が死ぬ以上の悲しみはまだない。 首を縦に振り、「はい」と掠れた声で返事をする。 当主は満足そうに、綺麗に微笑んだ。 去り際、彼は財前の方も見て、謙也と並ぶ姿を嬉しそうに見遣った。 その中に、悲しみの色も慟哭の陰りもなかったから、気付かなかった。 わからなかったんだ。 「当主」 自室に足を向け、歩く背中を追いかけて、無礼と知りつつ肩を掴んだ。 ぴくりと反応したが、彼は小石川の手を振り払わなかった。 満月に近い月が見える、渡殿。傍に、桜の咲く夜の庭。 「…お身体は」 「……元気なもんやで?」 蔵ノ介は言って、小石川を振り返る。月を背後に負った笑みは、壮絶な程迫力があった。 「確実に、健二郎と同じに生きる。咳も出ないしな。こない調子ええんは何十年ぶりか」 小石川は言葉を失った。嬉しいことなのに、失うしかなかった。 顔に悲痛の二文字を張り付かせた小石川を、蔵ノ介は笑う。 今度は、泣き出しそうな笑顔で。 「…千歳の馬鹿の、寿命の分や」 その声は、あまりにも震えていた。大声で泣き叫んでいるように、言葉にならない悲しみを抱えているように、震えた声なのに、彼は泣いていない。 「…泣かれたらええんです」 「……」 強く、言い聞かせるように小石川は言う。自覚しているのだろう。千歳はいない。 自分が、支えなければ。 (だって、任されてしまった。でも、) 腕の中に、蔵ノ介の身体を抱き寄せると、身体はあからさまに強ばった。 「…敬語、使うな」 「……泣け。…蔵ノ介」 頭を抱いて、自分の胸元に押しつけるようにする。 ほどなく、震えだしたのは、頭蓋だけではなく、すぐ全身に広がる。 「………っ」 「……」 「………っ…ぁ………ぁあ、あぁ、あ、あ、ぁあ、…あ」 きつく抱きしめて、腕の中に閉じこめて。 「…あ、ぁ…っうぁ、ああぁあぁあぁっぁあ―――――――――――――!」 悲鳴を上げて泣き出した身体を、月から隠しても、どうしようもないことを知っていた。 (任せられたって、困る) 「…せ…ちとせ…千歳っ、千歳!」 だって、この人が呼ぶ名前は、俺じゃない。 「千歳…ちと…っ………」 俺は、「千歳」じゃない。 「千歳…ッ…!!!」 お前の代わりの世話役なんか、こっちから願い下げや。馬鹿。 腕の中で泣く身体に見えないように、目尻に溢れた涙を拭った。 決して、零れてはいけないから、手の平で隠した。 術の使い方を聞いたけれど、正直わからない。 「せやから、」 「うん、根っこはわかるんやけど…」 死神の術というのは、魂に刻まれている。だから、本来指南はいらない。 しかし、早い育成のためには指南を施すのが普通だし、財前も小石川や他の先輩に教わった口だった。 謙也も根っこは理解しているが、いまいち手に繋がらない、という顔。 「……そういえば」 「ん?」 ようやく日が落ちていく。あれから半日過ぎて、もうすぐまた、夜。 満月の日だ。 「く…当主…な」 「ああ、助かって…………………、」 よかった、筈だ。だけど、なんだろう。お互いに抱える、この妙な不安感。 小石川はなにも言わないけれど、当主は完璧な程綺麗に笑うけど。 だから、何故か募る不安。 「…そういえば、千歳さんは」 世話役の千歳を、見ていない。 当主を一人で、歩かせたりする人じゃないのに、どうして。 遠く、当主の部屋に面した端近に、座る当主を見つけた。 「…」 やっぱり、おかしい。 謙也に一言言い置いて、そちらに向かった。 財前の足音を聞きつけて、当主は顔を上げて微笑む。 綺麗で、一切の無駄のない、笑顔。 悲しみなんか、欠片もない。 「……当主?」 「うん? どないしたん?」 「……」 「謙也が困ってる。放置してええん?」 よく動く口。ゆっくりという風に微笑む顔を作る。下がった眉尻。上がっている口の端は笑っている証拠。ゆったりと、瞬きをする印象。 「……」 「光?」 「…」 何故だろう。この人の時間が、止まっている気がした。 笑っていないのに、笑ってる気がした。 完璧すぎて、逆に歪。 だって、そこに千歳がいない。 「………そないなわけあらへん」 「…?」 「…千歳さんは、当主を置いていなくなったり、しません」 当主の顔の動きが、そのまま固まった。笑った表情のまま、停止したみたいな。 ああ、やっぱりあってた。あのひと、今、いないんや。 「………、千歳は、おるし」 やがて、歪に完璧な顔で笑って当主は言った。 「嘘です」 「おる」 「嘘です」 「おるわ」 「嘘や。なら、なんでおらへん」 「おるって言うた!」 堂々巡りになった会話を断ち切るように、当主が叫んだ。その声にが聞こえたのだろう。遠くで謙也がこちらを見る気配が背中に感じる。 「…千歳は、おる」 「あなたの傍に、おらん」 「千歳は、おる」 もう、いないと分かり切っている。当主の反応が、その証拠。 なのに、当主はだだをこねるように、わかりきった嘘を、言葉にする。 笑顔はいつの間にか引きつって、完璧じゃない。まるで、復讐を遂げた人間が見せる、「ああ、自分は終わったんだ」って言う笑みみたいに、歪だ。今度こそ、本当の意味で。 「…千歳は、…おる。俺が言うなら、傍にいる。…千歳は、…いなくなったりせえへんのや」 虚勢で勝ち誇った笑みを浮かべるこのひとが、悲しくなった。 何故、いなくなった。知らない。経緯なんか。 でも、傍にいなくちゃいけない人だった。きっと。 この人の傍にいなきゃ、いけない人だった。一番、この人が必要とする人だった。 「…………、て、俺が言うてんねんな」 「…当主?」 「…命令やで。当主命令。逆らったらアカンやろ世話役」 端近に座ったまま、立ち上がることもない身体。庭にいる財前からは見上げる形で、顔は下から見える。 それが、泣いている。ひどく、悲痛に、抱えきれない悲しみを背負ったように。 「…呼ぶから、命令するから…何遍でも言うから…要るから、…好き言うから……呼ぶから…」 どんどん、掠れていく声。涙に詰まって、声にならなくなる声で、彼は続けた。 「帰ってきて…こっち戻って……傍に……帰ってきて…」 当主が手すりに乗せた腕に、顔を押しつけると、髪が風に流れて腕をなぞる。 それは、見合った風景のようで、見ていて、痛いと思う。 なんで、いないんだろう。あの人。 「……嫌や…嫌や…こんなん嫌や…………嘘や…嫌や………嫌や……」 早く、戻ってきてくれと財前は思った。願った。 だって、痛い。見ているだけなのに、「当主」以上でも以下でもないこの人の嘆きが流れ込んだみたいに、心が痛い。 こっちまで、涙が伝染る。 「……馬鹿…千歳の馬鹿……返せ……俺がお前に与えた時間返せ……返さないでええから、帰ってきて……千歳」 傍にいつの間にか立っていた謙也が、財前の袖を引っ張った。下がろう、という意味だ。財前の頬に流れた涙を拭う謙也の目尻にも、浮かんでいる涙。 一度、顔を伏せたまま嘆き続ける当主を見遣って、その場からそっと離れた。 でも、足が重くて距離が離れていかない。一人で泣かせていいのか。 だけど、きっとあの人は泣く。誰がいても、泣く。 あのひとがいないなら、帰らないなら、泣く。 振り切るように前を見て、離れようと歩を早めた財前の肩を「すまんね」と謝った人が叩いた。 余裕がなくて、流してしまってから、しばらく離れた場所ではた、と足を止めたのは、二人一緒。 「……あんた、千歳さんて会ったことある?」 「一回。拾われた時、むしろそっちを覚えた…なんか険しい目つきの」 顔を見合わせると、謙也も財前も困ったような、それでいて、喜ぶ寸前で、喜んでいいのかまだわからない、という顔をしている。 「…今の」 「今の」 あのイントネーションは、一族の中でも少数だから、目立つ。 かつ、一瞬だけ見たあの、巨躯は。 財前は呆れていなくなっただろう。足音はしない。気配もない。 言葉は尽きたわけじゃないのに、もう出てこない。 涙だけが、枯れないで溢れる。 手すりにもたれかかったまま、動きたくない。 このまま、死んだら意味がないのに。千歳の気持ちを無駄にするのに。 「…気持ちって、なんや」 独り言だ。だから、余計歯止めなく零れた。 羞恥心がまるでなくて、誰に聞かれても構わないし、多分止まらない。 子供のような、甘えた弱い言葉が山ほど出る。 「あいつが、俺のこと考えたわけない。あんな自己満足。花丸なんかやれん。 …気持ちなら、…ホンマなら、…傍にいてくれた。あいつは、…わかってる。 だから、傍にいるはずなんや。千歳はおる。おる。俺が言えばおる。 俺が呼べば返事するんや。命令なんや。俺は当主や。 …呼ぶから、要るから、名前呼べ。返事しろ。…帰ってこい。 …はよ、髪撫でて名前呼べ!」 我ながら、なんてむちゃくちゃな無理難題。無理どころじゃない。不可能。 それでも、堪えられなかった。 「うん。ごめん。蔵ノ介」 …声が、あった。 髪を撫でる、感触がした。手が、そこにある。 「………」 茫然として、なんの反応も出来なくて、顔を上げたら夢じゃないのかって、怖くて。 上げないまま、手を探ったら、指に触れた暖かい温もり。自分の手を、そこから掴んで握る大きな手の感触がする。 心臓が五月蠅いのは、気のせいじゃない。悪夢なら、うんざりだ。 でも、優しい指の感触に思い出された優しい微笑みが、顔を引っ張った。 顔を上げたら、そこにいつも通りの笑みが、あった。 「ただいま」 「……千歳」 「うん」 「千歳や…」 「うん」 庭に立つ身体が手を伸ばして、蔵ノ介の頬を引っ張った。 「あれ、痛くなか?」 「なんのはね(真似)や」 「いや、夢って疑って自分でつねると思ったけん、つねってやろうと」 「……いたい」 「そらよかった。折角帰ってきたんに、夢にされちゃ困ったいね」 蔵ノ介の頬を離すと、千歳は「説明と、どっちが先がよか」と意地悪に言う。でも、顔は自分の大好きな、優しい笑顔だ。 今、流れた涙は、悲しくない。 自然と緩んだ顔で、立ち上がって手すりに足をかけるとその腕の中に飛び込んだ。 わかっていたようで、千歳は両手を広げて受け止めてくれる。 「甘やかせ。好きって言え。抱きしめて離すな」 「離さんし、甘やかす。…好いとうよ。……………ただいま、蔵ノ介」 額に落ちたキスは、唇にされていないのに、甘い気がした。 語り尽くされた台詞でもいい。今は言い尽くして甘やかして、ここにいるってわからせて。そしたら、最後に約束をして欲しい。 「今度こそ、離さない」と、たった一つ、約束をして。 「千歳さん」 いよいよ大仕事を控えたある日の晩。 げっそりとした顔で自分の所に来た新米死神を千歳は見上げた。 縁側に座る千歳は、流石に立っている相手は見上げないと会話できない。 「どげんしたと?」 「いや、謙也くんと…特訓の詰めしてて」 「はぁ」 のんびり返事をする千歳は、多分それが彼の生きるリズムなのだ。 「寿命を与えることは上手くいったけん、俺が死ぬこつはなかったと。 いや、死神は自力で死ねないし、それがルールやけん。自殺のようなもんばい? 今回のも。やけん、それは阻止されたけど、魂の譲渡自体は成功して、俺の本来の寿命÷2=俺と今の蔵ノ介の寿命っぽかね」 彼には勝算があった。ただ、敗算もあった。だから、あんな別れになったと語る。 帰って来れない、置き去りにするかもしれない人間に「待っててくれ」は言えない。 千歳の談だが、小石川には一蹴されていた。 「……?」 なかなか言わない財前に、千歳は首を傾げる。 「間違って押し倒しちゃって…」 「手ば出し」 「てません。…ただ、…赤くなったのは、なんなんやろうと突き詰めたら怖い」 「……財前も今、顔が赤かね」 「…………」 もっと赤くなった、と千歳は楽しそうに笑った。 問題児じゃなくなる過程は楽しいが面倒くさいこともある。 実体験した当主が言っていたが、あながち、嘘ではなくなりつつある。 月が出ていた。思えば、いつも空は晴れていた。 世界の片隅の森からは、いつも月が見えた。 THE END 後書き |