第二話−【黒鍵のマリア】
「…千歳?」
夜中。珍しく起きて、炊事場にいた千歳に、やはり起きていたのか白石が声をかけた。
「ああ、…ちょっと眠れんだけ」
「……?」
不思議そうに、それでも心配そうに見上げる白石を軽く抱いて促すと、すぐ頷いて寝室に足を進める。
寝室はさほど広くなく、子供たちの寝室の隣にある千歳の寝室に白石が転がり込んでいる。
白石がここに来て、一ヶ月。
「千歳。痛そう。どないしたん?」
寝台に腰掛けて、それでも不安そうに見上げるから、苦笑して右目を押さえた。
「俺な、昔、西霊国〈ジュリエッタ〉の兵隊やったと」
「西霊国〈ジュリエッタ〉の?」
「うん。で、右目を怪我して。失明したけん、もう使い物にならんて出てきた」
冷えると痛くなるだけたい。と笑うと、一瞬酷く辛そうな顔をした白石が、肩に手を置いて伸び上がった。
その見えない右目に、暖かいなにかが触れる感触。
それが彼の唇だと気付く。すぐ離れたそれに驚いた後、痛みが消えていることに気付いた。
「…千歳」
「……なん?」
優しく返すと、その身体が温もりを求めるようにすがりついてきた。
背中を抱き返すと、更に強くすがられる。
「…千歳は、…俺に怖いことせん」
優しい。と言う声はどこか悲痛に満ちている。
「…、」
「……やから、千歳は好き」
「……せんよ。お前に痛いこつも、怖いこつも」
「……」
信じたいと願うように見上げた瞳の色に、吸い寄せられるように唇を重ねた。
(……え?)
驚いたのは、千歳の方。
唇を重ねたのは千歳の方なのに、初めてかと思えば応えるように絡められる舌があきらかにそういったことに馴れている。
唇を解放すると、呼吸を荒くした白石がまたすがりついてきて、千歳の服を掴んだ。
「……、………“二人”が……巧い…て言う」
「…え?」
「俺が…キスとか………抱かれるのとか…巧いて……。
仕込んだ甲斐があるとか言ってた…。意味わからんけど…あんまりええことやないんはわかった……。
…そういう、怖いことするから。嫌や言うてもするから。
……やから、逃げてきて……」
それ以上言わせないように、きつく抱きしめた。
「…絶対、せん」
「…ちとせ?」
「絶対、せん。……守るから。…もう、そげん怖か思い、…お前にさせなか」
「……千歳」
伸ばされた手を掴んで、約束のように薬指の付け根にキスをした。
意味は分からない筈なのに、白石は嬉しそうに笑ってくれた。
「…可能性としては、」
あったんだがな。と橘が言った。
「可能性?」
「あの外見だろ?
まあ、貴族か領主の愛妾か愛人か…飼われてた寝子とか」
「そげんこつは思ってても言うな」
「言わなかっただろ」
橘はそう言ってから、ふと手を止めた。
「…そういえば、蔵ノ介の名字」
「あいつの? それが?」
「『白石』…って、聞いたことあるなと思ったんだが。
西霊国〈ジュリエッタ〉の先代国王の家名がそうじゃなかったか」
「……、ばってん、先代国王は亡くなって久しいし、息子は一人おったけん一緒に亡くなった筈たいよ」
「だから、あくまで言っただけだ」
「…俺も先代国王は暗殺かもしれなかて、噂くらいは聞いたけん、…でも」
それはない、と言い募ろうとした千歳の声を遮って、庭の奥で悲鳴がした。
最後の銃弾でなんとかケリがついて安堵した。
夜盗だった。
子供たちが全員無事なことを確認して、千歳は家の奥に走った。
白石には隠れるように言い聞かせた。あの外見で、見つかったらなにがなんでも連れていかれる。
「蔵ノ介!」
「…千歳」
念のためと言われて頭を布で隠していた彼の姿を見て、どこも怪我をしていないことに安堵した。
「よかった…」
「…千歳…っ」
「…蔵?」
抱きしめる腕から逃れて白石が部屋の奥を指さす。
まさか。
部屋に飛び込んだ千歳の視界に、赤が見えた。
血だ。
「よう…お前も無事だな」
よかった、と言う親友は夥しい血で濡れていた。
「桔平!」
「…悪い。喰らってしまってな。……助かりそうもない」
「そげんこつ…っ」
けれど、千歳自身が否定しても助からないと思ってしまった。
長く戦場にいたからわかる。
もう、助からない怪我と、そうじゃない怪我の区別くらい。
これは、…助からない怪我だ。
「………っ」
血が付くぞ、と掠れ声で笑う親友を構わず抱きしめた。
失いたくなんかなくて。それでも、助けられる力なんかない。
「千歳」
嗚咽になる呼吸の中、傍で響いた声は酷く柔らかかった。
「…くら?」
涙に濡れた顔で見上げた先で、白石は傍にしゃがむと橘の全身を覆う傷に手を当てる。
「なん…」
彼が息を一度吸った瞬間、その場を目映い閃光が満たした。
光だ。
それが、白石の手から溢れるように現れて橘の傷を覆っていく。
徐々に呼応するように癒えていく傷に、まさかと思いながら呟く。
「……………魔法…………?」
やがて光が消えて夜が戻った時、橘の身体に傷は一つもなくなっていた。
茫然とする二人の前でふら、と傾いだ白石の身体を咄嗟に千歳が抱き留めると、意識がなかった。気を失っているだけだと確認して、顔を橘と見合わせる。
「…魔法を、…使えるのか……?」
「……………蔵ノ介…が……」
あれから数日。
魔法、なんて誰も信じないからなんの騒ぎにもなっていない。
魔法がなにかも知らない様子の白石にはかえって聞けず、千歳は庭で詰め替えた銃をくると回した。
あれが本当の理由?彼が語ったことも本当。けれど、彼があんなに無学で育った理由は、それではないのかと。
魔法を使える唯一の人間は知識を知らない方がいい。利用したい人間にとっては。
瞬間、ぴりと感覚に触れた気配に銃をそちらに向けていた。
「…誰か」
そこに立つのは二人の青年と、背後に数人の兵士。
「そう怖いもん向けんなや。俺達はここに世話になっとる従兄弟を迎えに来ただけや」
片方が口を利いた。
「従兄弟?」
「そう。…自己紹介したらなアカン?
西霊国〈ジュリエッタ〉、現兄王の謙也っちゅーもんやけど」
「…兄王…? 西霊国〈ジュリエッタ〉の?」
確か、西霊国〈ジュリエッタ〉は先代国王を暗殺したと噂になった国王の兄弟も後に彼らの息子たちに暗殺され、王座を継いだのは先代国王の兄と弟の息子たちと聞いた。
先代国王の兄の息子の兄王と、先代国王の弟の息子の弟王。
「俺が弟王の光。…あんたは?」
「…俺は」
傍の兵士がふと気付いたように謙也の方に声をかける。
「…へえ。光。こいつ、元ウチの軍の准尉やと。
千歳っちゅー」
「ああ。いましたね。えらい戦績よかったらしいけど怪我して軍を出たっていう」
「…そげんこつはよか。
…従兄弟って」
「一人しかおらへんやろ。
西霊国〈ジュリエッタ〉先代国王の嫡男」
「本来の王位継承者―――――――――――――白石蔵ノ介、のことっスわ」
「……王位…?」
王位継承者。先代国王の、嫡男。
白石が?
「蔵ノ介!」
背後で響いた橘の声に、ハッとする暇もなく暖かい身体が自分を庇うようにすがりついてきた。
「…蔵っ」
「…」
彼らから千歳を庇うように立つのに、その身体は震えている。
「…蔵ノ介。…帰るで?」
「ええ子に出来ますよね?」
ぎゅ、と千歳の服を掴んだ指が震えていて、けれど彼らを振り返った顔は酷く冷静に見えた。
「帰る。帰るから、ここにはなにもせんで。
千歳に、なにもせんで」
「ああ。お前が帰ってきて、もう二度とこないなことせんて誓うならなんもせんよ」
謙也の言葉に、約束やからな、と重ねて白石が千歳から手を離した。
「っ!」
途端、彼を抱きしめて捕らえた千歳に、驚いた白石が顔を上げる。
「…行かせなかよ」
「…千歳っ!? やって、千歳たちが」
「ばってん、お前を犠牲にしていいわけなか。
お前ももう俺達の家族たい。……守る、て…言うたろ?」
見下ろす千歳の微笑む顔に、白石が茫然とした後、酷く嬉しそうに微笑んだ。
そのまま伸び上がって千歳にキスをした彼が、涙を滲ませて、それでも笑った。
「ちとせ」
「千歳、だいすき」
瞬間、身体がなにかに包まれた。
「蔵…っ!?」
「…ありがと、千歳」
引き留めたいのに、身体が動かない。
なにか見えないものに防がれて。
まさか魔法? 彼の?
「…蔵ノ介! 待て…っ! 行くなっ!」
謙也と光の傍に立って、肩を抱かれた姿が最後に振り返った。
「ちとせ…………だいすき………」
彼の名前を呼んだけれど、叫んだけれど。
多分届かなかった。
守りたかったのに。
怖い思いなんか、二度とさせたくないから。
笑っていて欲しかったから。
俺も、大好きだったから……。
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