葛籠らせん

【初恋編】
第一話−【はじまりの回廊】





 開けては行けない。

 出ては、いけない。











 通りかかった中庭。
 見ない顔に、千歳は一度傍の同級生に誰だと訊いた。
 ああ、多分転校生、と返る。

 中庭を抜ける瞬間、振り返った千歳と、なにかに惹かれたように顔を上げた彼の視線がかみ合う。

 翡翠の瞳は虚ろに空を、千歳を仰ぐのに――――――その宝石が埋まった白い肌の美しさと白銀の髪のコントラスト、その氷のような顔が一瞬で脳裏に焼き付いた。



「……あー」
 一時間後、四時間目の授業を終えてもう一度中庭に戻ってきた千歳自身、わからない。
 やはり、中庭のベンチに膝を抱えて、嵐の家に一人留守番をしている幼子のようなその少年が、気になったのは間違いない。
 けれど、なにより一瞬交差した視線。
 そのあまりの、感情のなさに恐怖したのか、焦がれたのか、わからない。
「…あんた、…あの、…大丈夫、とや?」
 千歳の声に、少年は膝を抱えたまま顔を上げない。
 けれど、指がぴくりと動いたから、聞こえてはいる。寝てはいない。

 あの転校生、いっちょん誰とも会話せん。
 授業にもろくに出てこんと、学校来てあそこでじっと膝抱えとうよ。

「……俺、二年の千歳千里。草千里からとったと。親が。
 名前、訊いてよか?」
 やはり、返事はなく顔も上げない。
 あの一瞬が、奇跡のように。幻のように。
「……俺、テニス部入っとう。部活、なんか入っと?
 …、テニス、おもしろかよ?」
 やはり沈黙。その髪だけが、風に揺れる。
「……あんた、」

「…―――――――――――――綺麗かね」

 意図もなく、自然に零れた言葉。あの一瞬しか顔なんか見ていない。
 けれど、綺麗だと思った。
 ぴくん、とその瞬間、大きく指が動いた。
 辛抱強く待つと、千歳がもういなくなったと思ったのか、そっと少年が膝に押しつけていた顔を上げる。
 千歳の視線とぶつかった瞬間、いなくなってなかったと気付いてぱっと顔を逸らした。
「…やっぱ、綺麗か」
 つい、笑って呟く。聞こえたのか、少年が振り返った。
 それは、人形のようにぎこちなかった。
「……あ」
 気分悪くさせたか、と焦った千歳をもう一度まじまじと見て、彼は首をことりと傾げた。
 唇が、なにか言おうと動いて、すぐ慌てて閉じられる。
「……ん?」
 急かさず、優しく促して千歳はその前にしゃがみ込んだ。
 腰まで地面に降ろした千歳に、少年は流石にぎょっとして、千歳が自分が喋るまで去る気がないと悟る。
「………、せ?」
 ぽつり、とたった一言落とした声は、思ったより柔らかく低い。
 かといって低すぎもしない、雰囲気に似合った柔らかい声だ。
「……ちとせ、…二年の?」
「うん」
 話してくれたことに嬉しそうに破顔した千歳に、面食らった後、彼は少し頬を赤くした。
 人形のように凍った顔がそれだけで可愛らしくすら見えて、更に笑みが深くなる。
「……訊いてる」
「え?」
「…千歳、訊いてる」
「…あ、声な」
 彼が首を左右に振った。違うと。
「?」
「クラスの、人が言ってる。
 千歳、って。
 テニス部のエース、って」
「…ああ」
 一応そう呼ばれとう、と説明する。
 彼は俯きそうになった顔を上げて、視線をもう一度合わせた。
「…千歳は、なんで綺麗なんて…俺に」
「綺麗たい」
「…顔が?」
「…うん」
「嘘。すぐ、怖いって言う」
「いわなか」
「嘘。言う」
「いわん」
「嘘!」
 強く否定した声に、これがただの押し問答ではないと気付いた。
 自分の何かを、彼は否定している。
 醜いなにかを、肯定している。
 だから、立ち上がって髪をそっと撫でた。
 立ち去るために立ち上がったのだと誤解した彼は、触れる大きな手にハッと顔を上げてぽかんとした瞳で千歳を見上げる。
「いわん」
「………」
 揺れた翡翠の瞳。
 赤い唇がおそるおそる形どる。
「…ほんとに?」
「…ああ。約束してもよかよ?」
 伺うような、脅えたウサギが初めて人間の手から餌を食べようとする寸前のような態度につい笑って小指を差し出す。
「ほら」
「………」
 千歳と小指を何度か交互に見た彼が、そっと自分の指をそれに絡めた。
 シャツがずり下がって左手が露わになる。

(包帯?)

「…」
 千歳の沈黙が気になってか、指を絡めたまま固まる彼に、なんでもないと笑った。
 一気になんでも訊くと、また脅えられる気がした。
「…千歳」
「ん?」
「………」
 なんでもない、と首を左右に振って、彼はまた膝を抱えた。
 その瞬間、チャイムが鳴る。
「…いかんと?」
 千歳の声に彼が頷く。
 出来ればサボってでもここにいたいが、次の授業の課題は出さないと部活の時間に補習だ。
 後ろ髪を引かれる思いでその場を去る。千歳の下駄の音に耳を澄ますように、彼が首を傾けた。




(…もう、おらんよな)
 結局六時間目の後、仲間に速攻部室に引っ張られた所為で彼の元には行けなかった。
 部活の休憩である今は、もう五時近い。もういないだろう。
 手近な木陰で休もうと歩きながら、名前も聞けなかったと残念に思う。
「千歳!」
 背後から部活仲間に呼ばれた。
 なんだと振り返って目が吸い寄せられる。その仲間の傍に立つのは、間違いなく彼で。
「友だち? 部活見て行きたいって言っとうけん」
「あ、ああ!」
 咄嗟に頷いて、彼に駆け寄る。
 肩を抱いて引き寄せると、随分小さかった。その仲間の隣にいた時は少し仲間より高かった。
 あの仲間の身長が確か、175センチくらいだから、178センチか180。
 そんなことを考えていると、肩を抱く手をつつかれた。
 右手の人差し指でつついて、千歳を見上げる顔はうっすら赤い。
「あ、ごめん…」
「ええけど…、なんでそんな嬉しそうなん?」
「いやそら…」
 普通に会話になりかけて、千歳ははた、となった。
 昼間気付かなかったというより、昼間はわかるほどの単語を彼が話さなかったのだが。
 今の口調は、どう訊いても。
「…お前、もしかして関西ん人?」
 関西弁だ。聞き間違いでなければ。
「…、ちゃうけど」
「違うと? 家族が使っとう?」
「…つか、…住んでた場所のみんな使っとった」
 それは、住んでる場所が関西だと言わないか?
 案外「関西」の指す地域がわからないのかも。
「…見てってええ?」
「え? あ、テニス?」
「うん」
「よかよ! ばってん、なんでん?」
「…千歳が、楽しそうに言うから…」
 彼は目をそらすように明後日を向いてから、もう一度視線をこちらに向ける。
「…見たなった、かも」
 その、照れ隠しのようなぶっきらぼうじみた声に、一瞬驚いた後吹き出していた。
「かも」って、可愛すぎるだろ。
「なら、今コートあいとーし、打ってみんね?」
「え? わ、わからんし!」
「よかよか! 早く!」
「…っ…、…せっかち」
「なんか言った?」
「……なんも」

 照れ隠しじみたぶっきらぼうが可愛くて、コートに連れ込んでラケットを持たせた。
 仲間がおもしろがって審判までやるから、逆に可哀想だと思ったら彼は普通に打ち返してきて。
 手加減して、テニス自体やったことのない素人相手のつもりで打つはずがしっかり最後は本気になって。
 なのに、カウントは7-6でこっちの負け。
 悔しさと、それに勝る驚きと、―――――――――惹かれる心。

「やったこつあったんばいね…」
 成り行きで一緒に帰ることになった帰り道。
 呟いた千歳を、彼は「何の話だ」と見上げる。
「テニス、やったこつあっただろ?」
「…ないで? ラケット持ったことはあるけど」
「それ、やったっていわなか?」
「やって、コートで使ってへんし」
「どこで使ったんばい? 素振り?」
「ううん。打った」
「どこで」
「校庭」
「…コートがなかったと?」
「なかったけど、線引いてない」
「……?」
「全部で十人くらいで一斉にやった」
「…それ、テニスじゃなかろ……。打ったんもテニスボールじゃなかか…?」
「うん。バスケットボールとか」
「お前の住んどう場所、テニスとバスケを馬鹿にしとうね……」
 言ってから、まずかったかと口を押さえたが、彼は笑っていた。
 おかしそうに、くすくすと。
 初めて見る笑顔に、頬が熱くなるのを感じる。
「千歳、面白い」
「…そう、? …あ、あのな」
 呼び止めかけた瞬間、彼が俺こっちやからと走り出す。
「あ!」
 咄嗟に伸ばした長い手がその髪を掠めて、手首を掴む。
 しまった、と焦った千歳に彼は不敵に綺麗に微笑んだ。

「俺、白石蔵ノ介。二年。またな!」

 名乗った瞬間、つい緩めてしまった手から手を引っこ抜いて彼――――――――白石は駆け出す。
「明日な!」
 咄嗟に呼び止めた千歳に振り返って、「うん」と頷く声が返った。








→NEXT