葛籠らせん

【初恋編】
第二話−【氷縛に至る吹雪回廊】








 下校中、反対の道を明らかに全力で走る姿を見つけて、千歳は慌てて車が来ないか見てから道路を横断した。
 途中、やはりよく見てなかったらしくクラクションを鳴らされる。
 そのころには千歳の足は反対の歩道につき、音にびっくりして顔を上げた白石の手を掴んでいた。
「どげんしたと…? 急いで」
「…千歳」
 今日は白石は部活に顔を出さずに帰った筈で。
「…、よか。俺ん家、来なか?」
「……」
 ぶんぶんと左右に振られた首に、「じゃあ白石の家に俺が行く」と囁く。
 少し迷った後、微かに頷いてくれた。
 それを周囲の、自分に鳴らされたクラクションで集めてしまった視線がじっと見ていた。
 白石と初めて話した日から、白石がテニス部に入部した日から二ヶ月が経っていた。



 白石の家はアパートで、一人暮らしだ。
 親元はどこかとか、未だに教えてくれない。

 額にキスを落として、絶頂の余韻で震える身体をきつく抱く。
 初めて話した日から、ほとんど間をおかずに千歳は白石の家に上がり込んで、彼を抱いた。
 陶芸家の父親の職業柄、よく留守にする自分の家に連れ込んで抱いたのも、もう十回を越えている。
 初めて、白石の家に上がった日、玄関で振り返った彼に前置きもなくキスをした。
 一瞬、驚いて抵抗した身体を押さえ込んで、床に押し倒して。

 最初に抱いたのは、鍵もかかっていないアパートの玄関の床。
 それも、告白すら、していなかった。恋人でもなかった。

 白石は最初の一回以外、ことさらに拒むことはなかった。
 家に来るか、家族がいないから、と言えば頷くし、来て必ず抱かれることも理解して逃げない。
 家に行っていいかと言えば、やはりわかっているのに頷く。
 だから、もう受け入れられたと思っている。
 敢えて明確な告白を口にしないのは、多分怖いからだ。
「好き」という言葉は、自分の切り札。
 もし、揺れる細い肩、掴める細い手首、冷たい指先に、雪のような髪に、脅えた瞳に、流されて口にしたら一生彼は手に入らない気がした。その瞬間に、俺の前から消える気がした。
 だから、言わなかった。

「白石」
「…ん?」
「一個、よか?」
「なんや?」
 もうすっかり、帰宅途中の脅えた様子は嘘のように答える彼を抱いて、髪を一房軽く噛む。
「…名前、呼んでよか?」
「…なまえ?」
「白石んこつ、名前で」
「……」
「いやと?」
 低く囁いて、見下ろした顔。
 その顔に、心臓が一瞬ずきりと痛んだ。

 出会った時、自分と視線が一瞬交わった時の、あの、凍った顔と虚ろな瞳。

 それと、同じ顔を、瞳をしていた。
「…しらいし?」
「…。ま」
「え?」

「……しろさま」

「…え?」
 もう一度よく訊こうと顔を近づけた瞬間、今度痛んだのは胸ではなく頭だった。
 頭で考えるから、頭が痛まないのはおかしいと思ったことがある。
 そうなったのだろうか。
 意識が途切れる瞬間、自分を見下ろす彼を見た、気がした。



 床に倒れた千歳を見下ろして、白石は手を引っ張り、持ち上げると寝台にその身体を横たえた。
 自分の着ていた、床に散らばった千歳が脱がせたジャケットを千歳の裸の上半身にかけて、他を手早く自分の身体に身につけていく。
 そして、振り返らずに家を出た。
 アパートの階段を下り、道路に飛び出した足を照らす月光。
 そこに伸びる、二つの―――――――――――――


「………ちゃう…もう、後ろ…………」






 オヤシロさまが







「…、」
 ふと、意識が浮上した。
 微かに痛む頭は何故だろうと考えながら、起きあがったそこに彼がいないと気付いた。
「白石?」
 寝台から降り、キッチンに歩いた。
 けれど、どこにもいない。
「……白石?」





「……あ、あるね。こっちの山の奥に」
「ほんなこて?」
「うん。あ、乗っていくかい? 送るよ。歩きだろ?」
「あ、すいません」
 気のいい運送トラックの男性に頭を下げ、隣に乗り込む。

 白石が姿を消して、半月。
 彼はいくら待ってもアパートに戻らなかった。
 携帯は常に圏外。
 失礼でも部屋の荷物をあされば、あるのは衣類だけで貴重品や財布、身分証、全てがなかった。
 学校にも連絡がないまま来ない。
 親とも連絡が取れないと教師。

 いなくなったのは一過性じゃないと、千歳が焦って探そうにも、彼の地元を知らない。
 けれど、あの日自分の身体にかかっていた彼のジャケット。
 学校指定のではない。が、場所の名前があった。

 鹿骨市雛見沢村

 その並びから導き出せた村はたった一つ。
 今から向かう、静かな、電話もない小さな村。


 親には、そんな鄙びた村の学校に通うなんてと非難されたが、千歳にはどうでもよかった。
 白石に会いたい。それだけだ。
 雛見沢村にたった一つある、小学生も高校生も一緒に通う学校。
 そこに白石の名前はあった。



「……長閑ばい…」
 トラックから降りて、村の中に続く道を歩く。
 歩けど歩けど、見えるのは田圃。
 たまに、民家がちらほら。
「……ばってん、学校は…俺の引っ越し先(マンション)はどこにあっとや……」
 流石に愚痴くらい言ってもいいだろう。既に歩いて一時間経っている気がするし。
 村の唯一の電話はトラックから降りてすぐ確認した。この携帯の時代に不似合いな、村のはずれの公衆電話。
「…引っ越しのトラックと一緒に来ればよかったとか…?」
 しかし、それでは来るのは遅れてしまう。
 ただ、一日も早く会いたくて。
「……、」
 せめて学校に通ってそうな若い子はいないかと巡らせた視線。
 その端の駄菓子屋でなにかを買った黒髪の少年が、一度千歳を見て、それから明らかにほっとした顔をして呼びかけようとした千歳の顔をまるごと無視して踵を返した。千歳と逆に。
「ちょ―――――――――――――待たんね!? その無視はなかろ!?」
 咄嗟に大声で呼び止めた千歳に、振り返った少年の顔はいかにも「迷惑です」。
「…お前、失礼極まりなか」
「…別に」
(しかも、今舌打ちまでしたばい…)
「…なんスか?」
「いや、学校…か、マンションってどこか訊いてよか?」
「……、あんた、どこの人?」
「え、あ、九州…」
「……」
 少年はあからさまに「ハァ」と残念そうな溜息を吐いた。いちいち疳に障る。
「あのー、この辺はまだあんまり人の手が入っとらんので、ないです。
 マンションとか、学校とかは、バス使って渡ったこの大きい畑のもっと向こうですわ。
 徒歩やったら日が沈むまで歩かんとつかんのちゃいます?」
「まじか…」
 今は十二時だ。昼のだ。というかバスがあるなら教えてくれ。
 そういう感情が出ていたらしく、少年はバス停を案内してくれた。

「つか、なんですか?」
 少年も用事だったらしく一緒にバスに乗った。
「は?」
「転校? やないですよね? でかいし」
「…中学生ばい、一応」
「…うわ」
「大概失礼たいね」
「…いや、…結局年上。…いえ、ほな転校?」
「まあ」
「なんの都合スか。こんな場所に九州とはいえ街から」
「…一応、人を捜して…」
 少年は、はぁと気のない返事。
 しかし、この村の住人はみなそうなのだろうか。関西弁。
「そういえば、そん学校に変な部活ばあっと?」
「は? なんスかいきなり」
「いや、テニスのラケットで校庭で十人とかでバスケボールとか使った」
 自分で言っていて大概意味不明だ。伝わらなかったら空しい。しかし、白石の説明ではそれ以上がわからない。
「…ああ、戦い部」
「…たたかいぶ?」
「いろいろ戦う部活です」
「…………」

 全然わからん。

 しかし、白石の説明はあながち嘘ではなかったらしい(というかどうやら百%本当だ)。
「入るなら相手はします」
「あ、ああ…お手柔らかに」
 で、なにで相手?
 と突っ込んでいいのだろうか。
「……あ、お前さんは」
「財前光。中一」
「あ、俺は千歳千里。二年」
「……」
「あ、まだ疑っとう顔…」
 千歳が未練たらたらに呟いた時、バスが停止した。
「降りんでええんですか?」
「え、あ、こことか…」
 そもそも、此処が降りる停留所って言わなかったじゃないか。
 …なんか、ここに来てから延々内心突っ込んでいる気がする。
「…ここ」
 財前という少年が顎で示した先に広がるのは、小さな、本当に小さな木造校舎。
「光ー! …だれ?」
 バスから降りた財前を見つけて、校庭から駆け寄って来た脱色髪の少年がふと千歳を見て固まった。
「あ、転校生らしいです。謙也くん」
「てんこうせい…、ああ、なんや…。って転校生!?
 いくつ!? 高校でもアカンやろそのナリは!?」
「……俺もそう思ったんです。せやけど初対面や失礼やし、言えへんでしょ。
 身分証の生年月日見せてくれ、なんて」
…今、言っとうよ…?
 流石に怒っていいだろうかと千歳が財前の肩を掴んだ時、校庭の向こうから誰かが走ってきた。
「謙也! 財前、来たか………………………………」
 叫んだようなテンション高い声が、どんどん減速して消える。
「蔵ノ介くん?」
 財前が不思議そうに伺った先、白石は茫然と立って千歳を見た。
「……んで……」
「ごめん。追ってきたばい」
「………………」

 その瞬間、その綺麗な瞳を揺らして、泣きそうに千歳を見上げた顔。

 抱きしめるのを、堪えられたのは奇跡だった。



「…怒っとう?」
「なんでや」
 まだ場所がわからないマンションに千歳を送る道中、見つめる夕日の橙に染まった背中は怒っているんじゃないかと思える。
「…お前の前から、いきなり消えたん俺や。無理ない」
「…それはそうだけん………」
 追ってきたのは、流石に迷惑じゃないか。
 今頃、そんなことを思う。探す間、姿を見るまではそんな考える余地はなかった。
「…ほな、なんで追ってきたん。
 ただのセフレがおらんくらい、困ることか」
 吐き捨てるような言葉。それに見える僅かな悲しい色に思わず手を伸ばした。
 なにか叫びかけた身体を腕の中に閉じこめ、力一杯に抱きしめる。
 否定したくて、そして言わずに抱いた結果彼を誤解させていたことを消したくて。
 違う、と。
「……俺は、セフレや思うて白石は抱いてなか。一回も。最初から」
「……、じゃなんやねん」
「……から」
 声は、何故か掠れてしまった。
 涙に掠れたのだと、遅れて気付く。
「…お前を、好いとうから…………」
「…………嘘」
「嘘やなか!」
「………」
 されるがままに下に降りていた白石の手が、そっと上に伸びて千歳の頬を撫でた。
「…もっと、はよ言ってぇや……」
 のぞき込める深い翡翠の色に惹かれて、そのままキスをした。
「…ごめん。何度でも言うばい…。
 好いとうよ。だけん、会いに来た…」
 自分を抱く千歳の頭を緩く抱いて、白石は空に昇る月を見上げた。



「あ、そやけん、忘れちょった」
「なにが?」
 まだ家具すらない部屋に連れ込んで抱いた身体が、床に転がったまま視線を千歳に向けた。
 起きあがって散らばった服を集める、すらりとした細い身体。
「白石の名前」
「え?」
「いなくなる前に言ったやろ。呼んでよかかって。
 昼間会ったヤツも呼んどったばい。ダメじゃなかろ?」
 これでダメと言われたら泣く自信はある。
「……わかった。ええ」
「ほんなこつ?」
「…うん」
 そして、振り返って彼は微笑んだ。
「ええで、千歳」



 綺麗に。









→NEXT