葛籠らせん

【初恋編】
第七話−【二度、鬼】





 あれ以降、千歳は白石と共に帰っていない。
 帰りに渡邊と待ち合わせして、知っていることを話すのがここ数日の日課だった。
 雛見沢に一軒しかないスーパーでカップラーメンをカゴに拾い込んだ。
 普段自炊出来るくらいに千歳は料理が出来るが、そんな気分ではなかった。
 会計を済ませ、道をマンションまでふらふらと帰っていると、途中で自分の名前が呼ばれた気がした。
 振り返ると、運動場のような広場が見える。
 向こうから謙也が走ってきた。
「千歳ー! どないしたん? 買い物?」
「…あ、ああ」
 普通に受け答えながら、若干後ろめたくなったのは、あの会話にも、あの時にも謙也は関係ないと思いたいからだ。
「謙也。あれ、千歳」
 謙也の背後からした声にびくりと反応した。白石だ。
「あ、丁度ええわ。
 今、昼やん。
 おなかすいてへん?」
 あの日のことなど嘘のように笑う白石に、それでも後ずさるように距離を取ってしまった。
 それすら気分を害さず、ちょっと来いや、と白石は笑う。
 実際、あの日以降白石にあんな様子はなく。
 あの日がむしろ、白昼夢だったのではないかと思う程。
「…あ、ああ」
 たかが昼飯。それに謙也もいる。なにもない。こんな昼間から。

 広場の木陰に座って、買った中身の入ったビニール袋を置いたところで、財前が重箱の一段を持ってきた。
「あ、おったんですか。
 食べます? 俺と蔵ノ介くんで作ったんです」
 箱の中身はおはぎだった。
 正直、腹は空いていた。
 それに自分が来るなんて知らなかったのに、誰が選ぶかもわからないおはぎになにもないだろう。
 そう思って、一個手にとって一口かじりついた。
「どうです?」
「ああ、うん…」
 普通においしい。
 普通にうまいと答えようとして、ふとその残りのおはぎの中でなにか光ったように見えた。
「…?」
 なんだ? なにかの殻でも入ったのか? おはぎに?
 取ろうと指を伸ばした瞬間、指先に痛みを感じた。
「…っ……?」
 目を凝らして、触れて引っ張って、千歳は理解した瞬間、おはぎを地面に落としていた。
「あ、千歳。ひどいやん。なにすんねん。俺の手料理あんな興奮して食っとったんに」
「……っ……な……な…っ」
「千歳?」
 普通に笑って見上げる白石が、最早得体が知れない。
 だって、今おはぎの中に入っていたのは、針だ。
 裁縫の針。
 そのまま食べたら喉に刺さって、下手したら。

(―――――――――――――死…殺すつもり…!?)

「…千歳?」
 おかしがって伸ばされた白石の手をはねつけて、その場から駆け出した。
「千歳!?」
 自分を呼ぶ、白石の声だけが日常のまま。




(……なんね、これ……)

 カップラーメンを買って正解だった。
 あの後、普通に自炊する神経はない。
 寝台に横になったままでいると、不意に電話が鳴った。
 警戒したが、子機のディスプレイに浮かぶ番号は渡邊のもの。
 ほっと安堵して、子機を取った。
「はい」

『あれ? 声沈んどるやんか』

 ほっといてくれ。殺されそうなんだなんて信じないだろう。
「なんの用事ですか?」
『いや……自分』
「よかです」
 訊きます、と強く言うと渡邊は仕方なさそうに溜息を吐いた。


「……オヤシロ様の祟り……」
 電話がかかってきてもう何十分経ったか、不意に渡邊が出した話に、千歳は寝台に座ったまま顎を触る。
『せや。
 四年前のダム工事、それに賛成した形の人が必ず死んだりいなくなる。
 せやから、神様の祟りやないんか、てな』
「それじゃ、あの人は…」
『小石川健二郎は、よそ者やったからやないかなって、俺は思っとる』
「…よそもん」
 それなら、自分もそうで…。

 ピーンポーン…

 その瞬間、玄関で鳴ったチャイム。
 すぐ無視しようと思ったが、まるで気違いのように鳴らされる。
 時計を見ると、もう夜の十二時。
(…普通、こげな時間に来なかろ…。
 これだけチャイム鳴らして出ないなら、寝とうって思うんじゃなかか…)
『で、な、お前…白石蔵ノ介と仲ええやんな?』
「え? …く…白石が?」
『その子のことなんやけど…』
 またチャイムの音。
「すんません。客が来とるみたいで」
『客? こんな時間に?』
「すぐ帰しますんで…」
 子機を切らないまま机に置いて、玄関に向かう。
「…どなたですか…」
 苛々の出た言葉であけた玄関の扉の向こう、その白石が立っていた。
 にこり、と笑う。
「こんばんは、千歳」
「…蔵?」
 なんだ、このタイミングは。
 白石のことを訊こうとしたタイミングで。
「…どげんしたと? 蔵、一人?」
「うん」
 内心、財前は一緒じゃないのかと安堵する。
 彼も、確実に自分を殺そうとしている。
「なにしに来たと?」
「…千歳、ちゃんとドア開けてお話しよや?
 チェーン、外してくれへん?」
 かかったままのチェーンを指さす白石に、内心冗談じゃないと思う。
 そんな無防備な真似が出来るわけがない。
「用事ばあるなら、ここで済ませてくれんね?」
「開けてくれへんの?」
「俺は一人やけん、夜はいつもチェーンばかけとう。
 気にばせんで」
「…そっか」
 早く帰れと思う。得体が知れないし、渡邊もおかしがっているだろう。
「あのな、千歳。ご飯食べた?」
「……え、いやまだ」
 途端、白石の顔がぱっと明るくなる。
「よかった。あんな、これ。
 お総菜とか持って来たんや」
 見ると、白石の手にはなにやら風呂敷包み。
「おみそ汁にご飯もあんねんで。
 キッチン貸してや。暖めたるし」
「、……わざわざ……?
 そら、ありがとうな…」
「うん。千歳の好物一杯いれてきたんやで?」
 そう笑う、いっそ幼いとすら錯覚する無邪気な笑顔。
(なんで俺んためにこげな時間に弁当なんか…殺すんじゃなかとか…?)
 そう思った瞬間、胸がキリリと抉られたように痛んだ。
(…今の蔵からはまるでなにも感じなか。
 好意じゃなかとか? 好意で飯ば持ってきてくれたとに…)
 そこでハッとする。
 なんで今日に限って?
 今日は自炊する気分じゃなかったからで、いやそれは昼間の白石の所為だ。
 だから罪滅ぼしに…いや、違う。
 自分が作る気がないとカップラーメンを買ったのはその前だ。おはぎをもらう前。
 そもそも白石は自分が自炊出来るとよく知っている筈だ。
 陶芸家で滅多に家にいない両親のことを知っているし、年中家に連れ込んだ。
 なのになんで。
 そもそも、あの時は?
 俺があそこを通ったのは偶然だ。本当に偶然。
 なのに何故、俺の食べるおはぎに針が。
「今日は、…自分で作ったばい。やけんごめん…」
「え? そうなん?」
 きょとんとする白石に対しわざとらしい笑みが浮かぶ。
「ああ、しかも結構作ってしもたけん、有り難いけんどもう食べられ…」
「なんで嘘つくん?」
「…嘘、なんかついてなかよ」
 答えながら、背中を冷や汗が流れる。
 声も、掠れた。
 まずい。
 この流れは、あの日の流れだ。
「なんで、嘘、つくん?」
 その声に混ざる笑み、裏腹の低さにびくりと肩が震えた。
「な、千歳。
 嘘吐きな千歳の夕飯、当てたろか」
「…そげなわかるわけ」
「カップラーメンやろ」
「…っ」
 なにを、いや何故わかる?
 俺が自炊出来るのは本当に白石はよく知っている。
 逆に俺がカップラーメンのような即席の身体に悪いものは嫌っていることも。


『昔、うちにおった仲間が料理が趣味で、年中俺に説教したとよ。
 カップラーメンなんかよっぽどじゃなかなら食べるなって』
『おもしろい子やなぁ』


「好きなん? 豚骨ショウガ味」
「…は…………、今、なんて言ったとや?」
「豚骨ショウガ味。スーパーで二個だけ買ったやん」
 ニィと、笑った顔はやはり、瞳が笑っていない。
「どげんして…あ、ああ。今日、俺の買い物袋ば見て…」
 そこではた、となる。
 いや、今日買ったのはしょうゆ味のカップラーメンだ。
 家に帰ってから、以前買った豚骨ショウガ味を見つけて、そっちを食べた。
 全身から得も言われぬ嫌な汗が噴き出る。
「ど………………どげんしてそげなことまで……………。
 なんでん蔵は俺んことば知りつくしとう!?
 なんでんわかる! なんで知っとう!?」
 チェーンでロックされた扉を叩く千歳の拳にも脅えず、白石はくすくすと笑う。
「なんでん俺が今日、あそこ通ることまでわかっと!?
 俺は今日、家から出たのも行き当たりばったりばい!
 今日は学校休みやし…なんで!」
「…………やって、…千歳の後、ずっとくっついとったから」
「…な、…なに、言うとーと……?」
「せやから俺がな? 千歳が家から出て、友だち?に電話してたんも訊いとったんや。
『今日は自炊する気分じゃなか。なんかカップラーメンでも買うばい。
 理由? 訊かんでくれ』…って」
「っっ!?」
「せやから、買いに行くんならあそこ通るて思っておはぎ作って、みんなであそこで遊んどったんや。
 せやけど…、お前が家帰ってから、一度また外出たやん?
 そん時また同じ子からかかってきて、『古い豚骨ショウガ味があったからそっちば食べる』って…ずっと、背中にくっついてたんや……ふふ…」
「…嘘ばい…。お前ん姿なんか見えんかった!」
「…ふふ…。なぁ、千歳。
 ここ開けて?」
 外から伸びた白石の手が、邪魔なチェーンをつつく。
「この邪魔な鎖外して、俺と一緒に飯食べようや。
 な?
 開けて。あけて。
 ここ開けて。
 千歳、いつもみたいに中入れてや?」
 伸びた白い手が、強引に外そうとチェーンをぐいと掴む。
「…っ…帰れ。帰ってくれ!!」
「っいつ…っ!」
 思わず無理矢理閉めたドアの間に腕が挟まれ、白石が悲鳴を上げた。
 それでも千歳は力を緩めない。
「…痛いやろ。
 ひどい千歳。…痛い。痛いって…」
「…っぁ…っ!」
「このドア開けてや…。開けて、開けて…?
 千歳、開けて」
 一瞬、手が緩んだ隙を見逃さず再びチェーンに伸びかけた手に、今度こそ迷わず扉を閉めた。
「帰れ!!」
「いたっ!」
 再び閉まった扉に、今度は指を二本挟まれ、白石が痛いとドアの向こうで訴える。
「痛い…。千歳、痛い…。
 ホンマに痛い…。
 悪ふざけが過ぎたから…謝るから…せやから…。
 ごめん。ごめんなさい」
「帰れ…帰れ!!」
 一瞬緩んだドアの隙間から白石の指が見えなくなる。
 助かったと思ったが、そこから再び中に伸びた指がずり、とドアを撫でた。
「…………千歳、開けて。ここ開けて。
 俺が悪かったなら謝るから…な、開けてや…」
「……っ…か…」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」
「…帰れ!」
 指が僅かに引っ込んだ隙に今度こそ完全に閉めて、鍵をかける。
 指の先を掠めたかもしれないことなんか構わなかった。
 ドアの向こう、まだ謝る声が響く。
 けれど、千歳は振り返らず、自室に逃げた。




『…今の、白石蔵ノ介か?』
 千歳が部屋に戻ったのを音で理解したのか、受話器から渡邊の声。
「あ、……はい。もう、帰ったんで」
『……やっぱり』
「…え」
 心臓がどくりと鳴る。嫌な方に。
 やっぱり?なにが?
 今の様子が聞こえていたのだとしても、なにがやっぱり?
『白石蔵ノ介の話や。
 あいつ、短い間、雛見沢から出てたんやけど』
「ああ、知ってます。俺、そん時に会って…」
『? キミは九州の学校以外にも通ってたんか?』
「…え?」
『白石蔵ノ介がおったんは東京の学校や』
「……?」
 東京?
『で、そこでバットで数人の同級生を怪我させる暴力事件起こしとる』
「…は?」
『そん時、彼に事情を聞いたヤツから訊いたんや。
 彼、話を聞いた警察にこう言ったんやて。
「オヤシロ様がいる。すぐ、後ろに」って』
「………」
『もしかして、ホンマにオヤシロ様の祟りはあるんかもしれへん……』

 なにかが引っかかる。
 なにが?
 そうだ。
 あの時、白石が急に九州からいなくなった日。
 彼は俺の腕の中でなにか言った。

『……しろさま』

 なに…さま?
 しろさま…オヤシロ様!?

 背筋を走った悪寒。
 一致したパズルピース。
「……そんな」
 不意に、窓の外を見て思わず子機が手から零れた。
 窓の遥か外、下。
 雨が降っている。
 その中に立って、こちらを見上げる虚ろな顔。
「…蔵」
 その顔は、あの日俺が恐怖した顔だ。
 唇が動いている。なにか言っている。
「…め…ん、なさ……」

『ごめんなさい』

 それをずっと、延々、言っている。
 聞こえもしない言葉を、こんな雨の中、こんな夜中に。

「……蔵、お前……」

(ほんに、人間じゃなかと……?)









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