葛籠らせん

【初恋編】
第八話−【ここからどこへと?】




 前後を覚えていない。
 ただ、買い物に家を出た。
 学校はずっと休んでいた。

 疲れたと、しゃがみ込んだ自分の背後で物音がして、振り返って悲鳴を上げたのだ。
 白石。
 それも、左手に、鉈。

 それから、ずっと逃げている。
 右左もわからなくなって、視界に見えた見慣れた校舎に逃げ込んだ。

 荒く呼吸を吐いて、一つの教室で膝に手を突く。
 背後で靴音。
 びくん、と振り返ったそこに立つのは、白石ではなく財前。
「……あ」
「なに、脅えてはるんですか?」
「……」
 後ずさる千歳の肩に、手が触れた。
「!」
 びくっとまた大きく震えて、咄嗟に手から離れると、白石がそこにいた。
「……」
「千歳。なんで逃げるん?」
「……って」
「え?」
「やって…お前ら俺を殺すつもりやろ!?」
 掠れた声を精一杯震わせた千歳を見上げて、白石はきょとんとした。


「…?」
 ことり、と首を傾げた白石が、千歳の前で笑う。
「なに言うてん?」
「……、や、って…おまえ」
 その場に縛り付けられたように固まる千歳を見遣って、彼は不意に口元を押さえる。
「…っ…く…ふふ…っ…ふ…っ…」
「…蔵…………?」
 その唇から零れる笑いに、背筋をはい上がる恐怖。
 後ずさった千歳の背中に、背後の財前の指がとんと刺さる。
「は…はは…っ……、千歳、勘違い
 なにがだ?そう訊きたいのに、唇が動かない。
 白石が口元から手を放して、自分の服に手をかける。
「…蔵?」
「…欲しい、やろ? 最近ずっとお預けやったん。
 …な?」
 その足から落ちたズボンから、引っかかった足首を引き抜いて白石は残った上半身のシャツのボタンを指で一つ外す。
「…な? 欲しいやろ? お前の身体もん
「…蔵…っ………なに、言うとーと…」
 今、ここは学校で、ここには財前もいて。
 なのに、自分からそんなこと。
「…あ、欲しいなら財前もええで?」
「は?」
「…財前も抱きたかったら、ええで。な? 財前」
「はぁ、ええですよ?」
「……っな、おかしかよ…! 頭、おかし…」
 千歳の言葉を、今度遮ったのは背後の後輩の笑い声。
 財前は笑わない。笑って、顔の表情だけ。
 声に出した笑い声は訊いたことがない。
 それが、背後で漏れている。
 くつくつと、おかしそうに響く声が明らかに高くて、耳に触れるたびに呼び起こされる恐怖。
「なに言うてん千歳。…俺ら、千歳も仲間にしてやろう、て言ってるだけやんか」
 かくん、と折れた首の傾いた向きのまま、白石もくすくすと笑みを零す。
「なぁ、千歳」

 ―――――――――――――「寂しいやんな?」

 高い笑いと共に落とされた言葉に、なにも考えずに背後の財前を蹴り飛ばしていた。
 壁にぶつかって倒れた身体に、床に落ちた荷物に目もくれず教室から飛び出す。
 恐怖のあまりよろけた身体の所為で、扉をくぐる時壁を掴んだ右手。
 その先が、不意になにかに触れた気がした。
「……ぇ」
 ことん、と床に落ちて、血のシミをつくるそれは、小さな、肌色をしている。
「……………」
 右手の、小指が、―――――――――――――ない。
 血が吹き出ていて、床に落ちたそれは、自分の指だ。
「……………、」
「約束したやん」
 いつの間にか廊下に、シャツ一枚の姿で出ていた白石の片手に、あの鉈。
「俺の顔、怖いて言わんて……約束破ったから指切り
「っ…―――――――――――――!」
 一瞬で、一度醒めた恐怖は急加速に早くなる。
 鉈が振り下ろされる可能性すら考えず白石とは逆に駆け出した。



 無我夢中で飛び込んだマンションの自分の部屋。
 玄関で鍵とチェーンをかけて、切断された小指に無理矢理布を巻き付ける。
 病院に行くべきだが、外を歩けばあの二人の片方に出くわす可能性から迷わずここに帰った。
「……蔵」
 怖い。あれが、白石?
 あれが?

「千歳」

 びくん!と背中が跳ねる。背後の鉄の扉を叩く手は、間違いなく白石だ。
「千歳。千歳。あけて」
「…、…っ」
「千歳。千歳。千歳。千歳。千歳」
「……、…」
 首を左右に振る。扉の向こうには見えていないと理解している。
 扉を叩いていた手が、かりかりと扉を引っ掻くように鳴りだした。
「嘘吐き」
「……」
「言わないって約束した。嘘吐いた」
「…………」
 五月蠅い心臓より、ずっと耳に響く、声。

「嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き。」

「…くれ」

「やめてくれ!!」

 絶叫のような声で叫んで、その場に座り込んで耳を塞いだ。
 なんなんだこれは。
 ホラー映画の主人公じゃあるまいし。
 ホラー映画より悪い。あんな非現実じゃない。
 これは、普通にあり得る現実の恐怖だ。
 声はいつの間にか聞こえなくなっていた。音もしない。
 いなくなった?そう思ってふと向けた視線。カーテンが開いたままの窓。
 そこに手を張り付かせた顔。翡翠の、瞳。

「嘘吐き」

「っ…」




 意識が、ふと浮上したのを感じた。
 頬に触れるのは床の冷たさだ。
 起きあがると、自分のマンションの部屋の玄関。
 どうやら、あまりの恐怖に失神したらしかった。
「………………………」
 固く閉ざした玄関の扉。
「………………………」
 開けたくない。出たくない。
 外は、怖い。

 白石が、―――――――――――――恐い。















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