葛籠らせん

【初恋編】
最終話−【おしまい、おしまい】




「………………とせ。とせ」
 頭上で呼ぶ声がする。
 あれ、どうしたんだ?
「千歳」
 白石だ。白石の声。
 心配している。
 泣かないでくれ。大丈夫だから。
「…蔵」
 頭を押さえて起きあがると、白石がほっとした顔で自分を見上げた。
「千歳。大丈夫?」
「あ、うん。ごめん。心配ば……」
 そこでハッとする。
 え?なんで白石が此処に。
 今まで、彼は―――――――――――――。

 全てを思い出して、はねのけようとした千歳を見上げる白石の瞳が潤んだように見えた。
「……」
「千歳。よかった。死んどるかと……」
 そう掠れた震え声で零す彼の瞳は膜が張っている。
 すぐ剥がれて頬を伝う涙。
「…蔵」
「千歳。千歳。…平気? なんか痛くない? 千歳」
 必死に自分を案じる声。
 ああ、白石だ。
 白石がいる。

 自分を本当に心配する、いつもの白石だ。

「…大丈夫ばい。大丈夫」
 心底安堵して、胸に支えていたものが外れたような気がした。
 なにをずっと疑っていたのだ。なにを一人で疑心暗鬼になって。
 気のせいだ。全部。
 全部、針も幻に違いない。
 思ったじゃないか。誰が食べるかもわからないおはぎに針なんて、って。
―――――――――――――も。

「……え?」

 今、『なに』も気のせいだと思おうとした?
 そもそも何故俺の家に白石が?
 鍵はかかっていたのに?

 背後から身体を固定された。ハッとした時には遅く、背後にはくすくす笑う財前の姿。
「く…」
「言うたやん千歳」
 小さく口の端を上げた白石が、千歳の顔をしたから覗き込んだ。
「仲間にしたる、て」
 その笑顔。瞳の印象だけが強い、形相。
「…」

 違う。いつもの白石じゃない。

 違う? これが『いつも』の白石!?
 俺が見ていた『普通』こそが幻!?

『嘘。すぐ、怖いって言う』

 頑なに自分が怖いと言われると否定した白石。
 それは、その顔が『普通』だから?
 だから怖いと言うと、言わないと約束した俺を、破った俺を「嘘吐き」と。

 ―――――――――――――全部、幻!?

 俺への気持ちも、なにもかも、俺との時間全部!?

「………っ」
 信じがたい、けれど否定しようもない事実。
 声を失った千歳の手をとって、その腕になにかが押し当てられた。

 注射器。

「な、なにし…!」
「仲間にしたる、言うたやん?」
「そうですよ。一瞬ですから…」
 声が、する。
 笑っているのは、誰だ?
 白石? 財前? オヤシロ様?

 俺?



 幻なら醒めてくれ。
 最初から醒めてくれ。
 白石を知る前から、あの出会った中庭まで。







 ふ、と意識が戻った。
「あたま、いた…」
 額を押さえて、顔を上げて声を失った。
 床に倒れている二人の人間の身体。
 白石と、財前。
 頭から流れるのは大量の血。
「…っ!」
 背後に後ずさりかけて、手に触れたものに息を呑む。
 血のついた、バット。
 自分の手に握られている。
「…お、れ……が?」
 俺がやった?
 白石と財前を殺した?
 白石を殺した…俺が!?
「……は。……ぁ……っ」
 がくがくと足が震えて立てない。
 呼吸が苦しいなら、何故まだ生きている?
 なぜ、

「……せ」

 零れた言葉。びくりと指が震える。
 見ると、床に倒れている白石の瞳がうっすらと開いている。
 死んだ状態なら、眼球はなにかを探して動かない。
 生きている?
「…ち…と」
「…………蔵」
 千歳の頬を涙が零れた。
「…。………」
 ごめん。

 ごめんは、俺の方だ。
 ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。
 なにに謝っているかももうわからないんだ。ごめん。

 ふらりと立ち上がると、手に持ったバットを構えた。

 迷いなく、その倒れて動けない白石の頭部に振り下ろした。
 小さなうめき声と、鈍い音。
「ごめん…ごめん…ごめん…」
 繰り返し謝りながら、千歳は何度も白石にバットを振り下ろした。
 何度も続く音と、謝罪と、血が散る音。
 もう生きていない身体に、何度も振り下ろした手は、しびれて痛い。
「…ごめん…ごめん……」
 最後に振り下ろした瞬間、骨が折れたような、そんな音がした。

「…ごめん……」

 その場にしゃがみ込んで、そっと息絶えた身体を抱き起こす。
 開いたままの瞳に、命はない。
「…ごめん…蔵……ごめん……」
 ぎゅ、といつものように抱きしめて、その唇にキスをした。
「…ごめん」
 すぐ、行くから。
 すぐ、追うから。
 待っていて。
「…ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん」
 何度も、繰り返した。




 家を出ると、すっかり沈んだ夜の闇。
 無我夢中に歩くと、ここに来て以来ずっと見ていなかった村の外れの公衆電話が見えた。
 見る必要がなかった。
 だって、ここは満たされていたんだ。
 幸せだったんだ。
 ごめん、白石。

 俺は、お前が、本当に、……好きだった。

「…ごめん。ごめん」
 誰も訊いていない謝罪を繰り返す。
 家の電話は全て壊れていた。携帯も圏外。

 ぴくり、と千歳が不意に足を止める。

 月に照らされる自分の姿。

『オヤシロ様が、後ろに』




 後ろに、―――――――――――――いる。






「…え?」
 渡邊が顔を上げたところに、同僚がそっちに忘れてたでしょ、と電話を渡してくれた。
「鳴ってますよ?」
「…。あ、千歳くんや、もしもし?」

『渡邊さん?』

「おう! どないしたん? 公衆電話? 家の電話は?」
『はぁ、ちょっと…』
「どないしたん? 煮え切らへんな」
『そんなことどうでもよかです。訊いて欲しかこつあるんで』
「あ、そうか。
 ほな、なに? 例のことでなんか」
『あれ、ほんなこつ、あるとですよ』
「……なにが?」
 思わずそう言ってしまった。
『オヤシロ様の、祟り』
「………言い切れるんか?」
『はい』
 受話器の向こうでふ、と笑った声が急にせき込んだ。
「おい、?」
『すいません。ちょっと風邪』
「そうか…?」
『それより、そのこつで…っ』
「おい?」
 またせき込む声。
『それより……俺…ん家に……わ……さんへ…手紙……っ』
「おい!?」
 ずっとせき込む声は続く。むしろ酷くなって。
 そこでハッとなる。
 せき込むというより、なにかを吐いているような。
「おい、自分まさか…!」



『自分の喉、かきむしってへんよな!?』
 受話器から響く渡邊の声も、ほとんど千歳には届かない。
 ずっと指でひたすらにかきむしった首は赤く、服を汚す。
「…ほんに…ある……ん……す……やって…いま、…おれんうしろ…‥」
『おい!』
「‥‥‥‥やしろ‥‥‥さ‥。‥‥。」
『おい、おい!?』
 その場に、公衆電話の中に倒れ込んだ身体に、もうそれは届かなかった。





 翌日、村はずれの公衆電話と、そこで息絶えていた少年の家から死体が、合計三人発見された。
 死亡したのは、千歳千里。白石蔵ノ介。財前光。
 警察は『千歳千里が二人を殺害した後、自害した』と判断した。

 その家にあった手紙は、彼が体験した出来事を書き記したもの。

 その一文、『指があった』。
 意味がわからない。

『誰か、真実を見つけてください。
 それが自分の願いです』









 【初恋編】 END →NEXT