謎々。

何故こんなことになったのでしょう。

わからないなら聞かないで。気付かないで。


このままで…







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有刺鉄線の向こうの花−前編−[懐慕友]
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 風呂から出て、安いビールを空けようとした渡邊の携帯が声を上げた。
 いいところを邪魔すんな、というとげとげしい気持ちは、着信相手の名前を見て、一瞬で失せた。自分は彼に対して、厭う気持ちを一切抱けない。
 例え、彼がどんなに無茶な要求をしてもだ。彼の性格上、そんな要求をされたことはないが。
 すぐコールを取る。耳に当てると、沈黙の外のノイズばかり際だった。
「…どないした?白石」
 自分の部の部長の名を呼ぶ。しかし機械の向こうは無言だ。
 他の相手ならすぐ“ほなあとにしてや”と言うところだが、白石の場合は別だった。
 辛抱強く返事を待つと、二分ほどして掠れた声が細く響いた。
 機械越し、死にそうにか弱く届く。

『…センセ』

「…なんや」
 気をつけて、優しい声を出してやる。すると白石は安堵したのかどうか。

『…今すぐ、…迎え来て』

 懇願のような声に笑うことも出来ず、ただ優しく言う。
「今日、親おらんのやろ。お前んち泊まったるから、安心せえ。十分もあれば行くから」
 うん、と拒むことなく頷く声。
「…すぐ、抱き締めたるから、ちゃんと家ん中いるんやで」
 うん、ともう一度。切ると、すぐ支度とも言えない支度を整える。
 ビールを空ける前でよかったと心底思った。
 部屋を出て、車に一直線に向かった。



 白石の家は普段から人がいない。
 閑散としている。親が中学入学の折りに離婚し、白石は父に引き取られた。
 だがハーフの白石は母国に帰った母親に生き写しらしく、父は滅多に家に帰らない。
 そんな事情を知っているから、渡邊が他の部員に内緒で泊まることも珍しくはなかった。
 一人で住むには広すぎる二階建ての家。車をいつもの駐車場に停めて門をくぐる前に気付く。門の中、玄関の前で、あれほど家の中で待っていろと言ったのに家の外で待っていたらしい白石の膝を抱えた姿。
 言っても無駄だとは知っていた。言っても彼は渡邊が来るのを一時間でも家の外で待つだろうと。しょうがない、と思いながらそれがひどく痛くてならず門を開けた音で弾かれるように顔を上げた白石に小走りに近寄って、立ち上がった細身の身体を抱き締めてやる。
 センセ、とか細く呼んですがりつく身体を慈しむように宥めて抱き締め、寒かったか?と聞く。ううん、と首を振られたがそれでも微かに身体が冷えていることはわかった。
 まだ初夏。夜は冷えるのが当たり前だ。
「家入ろ?な?」
「…うん。…センセ」
「ん?」
 大丈夫だ、迷惑じゃない、と伝えるように笑うとすがるように不安に揺れていた瞳が泣きそうに瞬きして、やはりか細く言う。
「…ありがと」
 そんなことはいい、と頭を撫でてやる。
 家の中に入れて、早く暖めてやらなくてはと渡邊は促すように肩を抱いた。




 案内されたのは白石の部屋で、健康オタクと謙也に言われる彼にふさわしくそんな品ばかりの部屋に来るのはあり得ないことにもう両手を越えている。
 まあ、それも自分と彼の関係が、ただの教師と教え子の範疇に収まるなら、の話で。
 柔らかいベッドに座らせると隣に座ってくれと強請るように見上げられた。
 最初からそのつもりだ。隣に腰を下ろすと、そのさらさらした髪を撫でてやる。
「……センセ」
「ん?」
「…ギュって、してもろてええ…?」
「うん」
 こういうとき、幼子のような拙いねだり方をするのがひどく可愛く、そしてそれだけ参っているのだと切なくもなった。
 胸元に顔を寄せた白石の華奢な身体をぎゅっと抱き締めてやる。
 服を掴む指の力が増した。
「…なんか、他にして欲しいことあるか?」
「…こうしてくれてるだけでええ」
「そうか」
「…ごめん、センセ…」
「こら」
 声を遮って、見上げる顔にちゃうやろ、と優しく咎めた。
「“センセ”やないやろ? 蔵ノ介」
 ここはもう学校やないんやから、と言う。
 すると初めてのように安心した顔で、小さく微笑んで肩に頬を寄せて呼ばれる。

「オサムさん…」

「ん、ええ子やな」
「…オサムさんは、迷惑やない?」
「んなことあらへん。お前より大事なもんはないから、安心せえ」
「…うん」
「…千歳も、困ったヤツやな」
 本題のように言うと、白石が少し身体を強ばらせた。
 わかっている、と宥めるように優しく身体を撫でた。

 今年、転入してきた千歳はテニス部員としては文句のつけようがなかった。
 ハンデをものともしないほど強く淡泊かと思いきや熱心で、後輩にもよく懐かれている。
 人付き合いも悪くなく、よく部活帰りのレギュラーの食べ歩きにも付き合うし、あれで全国制覇への意志も強い。
 顧問としては頼もしいばかりで、授業になかなか出ない困り癖にも目をつぶってやろう、というのが心境。
 だが、それはあくまで顧問でいる時の自分の思考回路だ。
 顧問の顔、教師の顔をやめた時、ただの渡邊オサムとして千歳に感じるのはどうしようもない苛立ちと倦厭と嫌悪だ。
 千歳の前でどっちかの顔をやめたことなどないから千歳はそんなことは全く気付いてないだろう。
 一ヶ月ほど前から白石から聞くようになった千歳の話題は、女癖の悪さが目立った。
 手当たり次第、だという。同じ学校、かと思えば近所の女大生だったり。
 とりあえず付き合う恋慕など欠片もない不誠実で、抱ければいい、という雰囲気。
 この間手をつけたのがクラスメイト、と聞いた時は流石の渡邊も頭を抱えた。
 自分だって女癖の酷かった時期はあったが、そこまで節操なしではなかったし、最低限の責任はとっていたつもりだ。
 しかしその程度なら、渡邊ははっきり言って気にしない。部活に支障がないなら、勝手にしてくれ、という意識。
 顧問としてなら相談は受け付けるが、ただの渡邊オサムとしてはそういう意識。
 渡邊が忌避するのは、白石に対することだ。
 なにかきっかけか知らない、白石自身知らないのだ。千歳の気持ちがよほど簡単なものか、それとも単純に癖になっただけか。実際、白石の身体は下手な女より綺麗で感度もいいし癖になるなという方が無理かもしれないが。
 しかし、一ヶ月ほど前のある日、女癖を注意した白石を千歳はまるでレイプのように犯したという。
 それが始まりのように、千歳は平気で白石を、まるで自分の女のような顔で抱くようになった。女、のつもりだ。あれは。
 好き勝手に抱いて、都合で勝手に遠ざける都合のいい女。
 そういう抱き人形として、千歳は白石を位置づけている。
 下手な女よりヨかったのか、避妊しないで済むから楽だとか、潔癖な性格だから決して他人にばらさないと信じたからか、単純に綺麗な外見が自分が与える快楽と苦痛に歪むのが心地いいだけか、運動をしている男だから女より多く回数出来るからか、或いは白石の中の僅かな千歳への思いに気付いて、面白がっているのか知らないが。
 千歳は仮にも部長を、ひどく遠慮なく彼は抱くらしく、一度試合の時白石らしからぬ力技のテニスを訝った渡邊の問いかけに、白石は素直に吐露した。
 千歳の考えは、その点で一個だけ間違っている。彼は、自分には隠し事をしない。どんなことでもだ。
 だから、渡邊は千歳を嫌悪している。顧問として試合前までそんな抱き方を部長にすることに対して、ではない。
 単純に、渡邊オサムとして、白石蔵ノ介を傷付ける彼に憤っている。
 言わないのは、白石がそれを拒むからなだけだ。
「今日は、何回ヤられたん」
「……、」
 明日は練習試合がある。強いられた回数によっては渡邊は白石を明日試合に出さないことも考えている。
「…三回」
「あいつは……っ。蔵ノ介、起きてんも辛いんちゃうんか?」
「……オサムさんが来てくれたから平気」
「阿呆、そういう問題やない」
「……平気。やからギュってしとって。駄目なら、…一緒に寝て」
 一人がイヤだ、と訴える子供を抱き締めて、瞳を見つめて伺う。
「…一緒に寝るだけでええん?」
 優しく問うと、迷うように揺れた。
「ほんまに、蔵ノ介はそれでええの?」
「………ヤ、やけど…あした、試合」
「ええ。明日、お前は出さん」
「え」
「これ以上、もうお前に無理させられん。やから明日お前は出さん。
 これはオサムとしての決定や。顧問としての決定やない。
 お前をこれ以上痛めつけとうないわ。ええな?」
 白石も、今のコンディションでは無理なことはわかるのだろう。
 少しの沈黙の後、わかったと小さく頷く。
 頭を宥めるようもう一度撫でて、優しく問いかける。
「…それでも?」
「…え?」
「それでも、寝るだけでええん?」
「…オサムさん…ずるい」
「知っとる。な、ええの?」
 狡い問いかけに、すがる瞳が願っていることを知っている。
「俺は、お前を抱きたいけど、お前はええの?」
 でもこれ以上虐めるのは可哀相で、口にすると白石は少しだけ安心したように腕を首に伸ばしてきた。
「…イヤや……。抱いて…オサムさんに、抱いて欲しい…」
「よう言えたな。ご褒美や、たんと可愛がったるから、安心せえ」
「…うん」
 頷いてばかりの身体をそのままベッドに押し倒す。
 唇をそれで塞いで、舌を絡めると素直にもっと、と腕が回される。

 自分こそ、千歳にでも知られようものなら不道徳だなんだくらい言われそうだが、生憎教師の顔を白石に向けるつもりはない。
 教師の顔で彼を抱く自分などいないのだから、不道徳もなにもない、と思う。
 教師で教え子で、顧問で部長で。
 でも、それ以前に自分たちは身内だ。
 誰も知らないが、白石蔵ノ介と自分の関係は、年さえ近ければ幼馴染みと言って間違っていないのだ。
 知り合ったのは白石が小学校にあがる前、自分が高校生だった頃で、その頃まさか教師、それも彼が自分の教え子になるなんて知らなかったから、近所のお兄ちゃんという位置づけで面倒を見た。
 テニスも教えたのは自分で、部活に入っていたから部活に招いたこともある。
 自分の友人には、割合有名な話だ。渡邊には弟のように可愛がっている子供がいる、と。
 大学に入ってからもつき合いは続いて、よく世話を焼いた。
 白石も幼いながら早熟で、賭け事に必死になる自分を小学校低学年の頭で“オサムさん、ろくな大人にならへんよ?”と注意したこともよくあった。
 自分は最初から白石を“蔵ノ介”と呼んでいたし、白石は自分を“オサムさん”と呼んだ。
 オサムちゃんでいいと言う自分に、白石はやって年上やのに、と譲らなかった。
 教師になって、彼が教え子になって。
 それでも付き合いはむしろ多くなった。
 親の事情に、渡邊はより多く白石を気にかけるようになった。
 抱くようになったのも、なにか自然な流れだった。
 親の身勝手に弱っていた彼を甘やかす方法を知らなくて、その時自分は真顔で聞いてしまったのだ。

 抱いていいか? と。

 中学にあがったばかりだった白石はしばらく反応を見せなかったが、やがてぽつりと。


 ―――――――――――――「オサムさんならええ」


 そう言って、その夜初めて彼を抱いた。
 教え子になったばかりの生徒になにをやっているという考えは、もう初めからなかった。
 それ以降、なにかに参った彼を抱くのは、もう当たり前になっている。
 学校では頑なに教師と生徒の立場を守る白石を尊重して、学校を離れても教師と教え子の位置づけであるうちは“白石”と呼ぶ。彼も“センセ”と呼んでいる。
 彼が昔の呼び方で呼ぶようになる時は、渡邊が教師の顔をやめた時だ。
 合図のように“蔵ノ介”と呼ぶと、彼も遠慮がちに“オサムさん”と口にする。
 それが可愛いから、もっと甘えていいと思う。
 道徳が邪魔になるなら教師の職などすぐ辞めていいというくらいには、自分はこの子を愛している。
 蔵ノ介が“センセの時のオサムさん、かっこええから好き”というから、まあまだそう簡単にやめる気はないが。
 それでも自分には蔵ノ介の方が重いのだから、しょうがない。
 一回りもちがう子供に人生を狂わされていると言えばいい。
 それでも、俺はこの子を独りぼっちにしたくない。
 それだけだ、と。

 世界中の人に理解されなくていい。
 ただ、この子だけがわかっていれば、それでいい。




「お…」
 翌日、大阪の強豪校との練習試合。オーダー表を片手に、謙也が肩を震わせて渡邊にくってかかるように顔を上げた。
「オサムちゃん! なんやこのオーダー!」
「なんやって、…見ての通りやろ? 謙也は珍しくシングルスなんや、もっと喜べや」
「そうやのうて!」
 謙也の声に小春や千歳も集まってくる。
「どないしたん謙也」
 ユウジの言葉に、これ!と謙也は息巻いてオーダーを見せる。
「あ、ほんまに謙也シングルスや。珍しなぁ」
「よう見ろ!」
「…………」
「あら?」
「……部長、今日出ぇへんのですか?」
 財前が言った。オーダーに入っていない部長の名前を指して。
「出ないちゅーか、俺が出さへんだけ」
「なんでやねん!」
「謙也」
 苦笑のように笑みを浮かべた白石が謙也の肩を叩いた。
「センセは気遣ってくれただけや。俺が今体調悪いて。悪化させんなって」
「…え? 白石、具合悪いんか?」
「まあ、ちょっとな」
「…確かに、ちょっと顔色悪いですね」
「大袈裟やな財前」
「いやほんまに」
「そういうことや。今無理させたないから、休ませるだけや。
 白石抜きでも勝てるチームなんや。問題ない」
「…そういうことなら、しゃあないけど」
「ほな、早く準備せえ。相手待っとんで」
「…」
 多少納得いかないながら、謙也もコートに向かう。
 渡邊は隣に座れ、と白石を招いた。
 白石は遠慮しようとして、しきれずすとん、とベンチの端に腰掛けた。




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