シャワーがタイルを打つ音に耳を澄ませて、流れていく水を見ていると足の鎖が引っ張られた。 千歳が、早く来いと言っているのだ。 今更抗う意味もなく、白石は素直に上半身にだけシャツを羽織ると風呂場を出た。 ベッドの下、座って俯いていた千歳がぺたりと歩いてくる白石を横目で見て、すぐ視線を落とした。 白石はどこに身を置いたらいいか迷って、少し離れた場所に座ろうとしてやめた。 千歳が小さく「こっち」と言うから。 そのままその傍に腰を下ろした。素の肌にフローリングの床は冷たい。 もう一度白石を見遣った千歳は今度は俯くではなく白石の手を掴んで引き寄せた。 ああ、矢張りもう数回は抱かれるのか、と覚悟して降りてきたキスを受ける。 しかしそれ以上は行われず、千歳は白石の胸元に顔を埋めてその身体に抱きついた。 腕をしっかりと背中に回す。でも、それは抱き締めるというより、すがるような行為だった。 「……千歳?」 訝るように呼ぶ。千歳は離れず、ただしがみつくばかりで。 従った方がいいのかとその頭を抱き締めた。 すると更に子供のように必死にしがみつかれる。 どうしたのだろう。 「…白石」 「…ん?」 呼ばれて、まるで恋人のように答えることにも馴れた。 本当は、恋人でもなんでもない、ただの『ごっこ』。 思うと、胸がちくりと痛んだ。 「…白石は、俺ばまだ好きと…?」 だから驚いた。千歳が必死に、そう聞いたことが。 千歳は顔を上げて、見上げて子供のように必死に聞く。 「…白石は、まだ俺のことば好いとると…?」 千歳、と声が零れた。 頭を抱き締めて、ぼんやりと思う。 好きだというべきなのか。骨を折られては適わないし。 ああ、本当に『ごっこ』だ。どこまでも、自分は、彼の玩具だ。 本当の女にもなれない、ただの、都合のいい。 悲しさに胸を覆われて、俯くと、千歳が不意に身体を離した。 「…ごめん。阿呆なこと聞いたと」 離れて、立ち上がる。堪らなく喪失した感触に胸が締め付けられても、なにも言えなかった。 千歳が振り返った。その顔が、泣きそうに歪んでいなければ。 馬鹿なことを聞いた、と自分で自分を嗤う、道化のように。 彼は、自分を嗤っていた。 泣きそうな顔で、それでも自分自身を嗤っていた。 愛されている筈がないのに、と自分を嗤う彼に、胸が苦しくなる。 「…そんなわけ、なかって知っとうに、馬鹿なこと聞いたと。」 忘れてと、願う背中が自分を向いた。 途端、恋しくて堪らなくなる。 自分を酷くしか扱えない男でも、都合のいい女としか見ていない酷い男でも、こんな狂気じみたことをされても。 自分は矢張り、好きなのだ。 「…俺は」 「無理に言わんでよか」 「俺は、好きや」 はっきり言葉にした。驚いた顔が、こちらを振り返って見下ろした。 「…俺は、千歳が、…好きや」 好きなのだ。どうしたって。彼が。 捨てられる筈、ないじゃないか。 「…そんな、…嘘ばってん」 「…好きや。…お前が、どんなに酷くても、…一生、元の生活に帰れなくても、…もう、かまえへん。…お前に、あんな風に優しく触れてもらえるなら、俺はここに一生閉じこめられてもええ。…やって、…好きなんや。好きや…。いくらお前に酷くされても、…好きやねんもん…」 「…白石」 「……好きや。やから『ごっこ』でいい。玩具でええから……俺のこと要るって言って」 千歳は驚きを葛藤に変えるように俯いて、目を必死に閉じる。 頭を数回振って、唇をかみしめて、確かめるように。 これが、夢でないと。 けれど、再び開いた瞳に映る白石は、確かに自分に愛を語った彼で、幻じゃない。 夢じゃ、ない。 すがるように、問いかける。 「…オサム先生より…?」 白石は真っ直ぐ千歳を見上げて、うん、と頷いた。 「…好き。…オサムさんより………千歳が好き」 瞬間、千歳はきつく白石を抱き締めていた。 痛い程抱き締めても、足りなかった。 ああ、神様。どうしたら彼は俺のものになりますか。 命が尽きるまで犯せばそうなりますか。一生ここに隠せばなりますか。 檻から出して、優しく触れればなりますか。 教えて欲しい。教えてください、神様。 千歳、好き。と告げる彼をただ抱き締めて、泣くことは出来なかった。 阻む有刺鉄線の向こうに咲く花に最初に手を出したのは自分なのに。 その花が自分を愛してくれる日を、思い描いたことがなかったんだ。 形態の着信音が鳴っている。 それで、目が覚めた。 あれから、抱かれずそのまま眠ってしまった。 起きあがって欠伸が漏れた時、室内を見渡してあれ?と思う。 「…千歳?」 千歳が、いない。 どこに。買い物だろうか。 ベッドから降りて、数歩歩くまでもなく気付いた。 「………ぇ」 足の鎖が外されている。 「千歳…?」 枕元にちゃんと置かれた自分の荷物。携帯に財布に。 咄嗟に持って、まさかと玄関に向かう。 千歳の靴はない。 おそるおそる触れた、扉はあっさりと開いた。 「………」 千歳?とまだついていかない理解が、そう呟いた。 不意に、カンカン、とアパートの階段を上ってくる足音が聞こえた。 「千歳!?」 裸足で部屋から飛び出すと、予想と全く違う人影が、茫然と白石を見た。 「……オサム、さん…?」 渡邊だった。 「く、…蔵ノ介…。お前、ほんまに…千歳に」 「…オサムさん…なんで、ここ」 無事か?と抱き寄せられる。暖かい。けれど、千歳は? 「…ようわからん。千歳から電話あって、お前がここおるからって」 「…千歳が…?」 「それにあいつ…」 「…オサム、さん?」 「…学校、辞めるって」 なんや校長に退学届け出してったって聞いて、と渡邊が最後まで言い終わらないうちに、白石は渡邊の腕を掴んでいた。 「蔵…」 「オサムさん! 車で来てんやろ! 乗せて!」 「え、そら家にちゃんと送るし」 「そやない! …ええと、多分…空港!」 「空港?」 「千歳捕まえるんや!」 「お、おい」 「早く! オサムさん…頼む!」 真剣に言い放つ白石に、渡邊は頭をかくと、わかった、と頷いて車へとその身体を促した。 「そういや、お前…裸足やないか。靴…」 「ええ」 「ええって…」 言葉を一度切る。 「ほんま、なにされとったん…」 「…オサムさんの聞いた通りやろうけど…あいつ、なに考えてん」 「…お前も、なに考えてんって話しやろけどな」 車が赤信号で止まる。 「…ごめん」 「謝るな! お前は悪うないし、俺の判断が間違ってたせいや。 ……せやけどあいつ」 渡邊の声に耳を傾けながら不意に窓の外を見た。 海沿いのビルと倉庫の並ぶ道。その隙間に、知った背中。 「…千歳…!?」 「…そう千歳…って…蔵ノ介!?」 「開けて! 千歳おった!」 「……」 「オサムさん!」 「……」 見送るにとどまらず、見逃さないとその消えた背中を追う瞳に、いつもの悲しさはなくて。 もしかしたら、兄代わりも、ここまでかな。 そう渡邊は思った。 「オサムさ…」 じれて振り返った白石の肩を抱き寄せて、軽く口付けた。 「……お」 「…俺がこんなことでけるん、きっと最後やから」 笑って、助手席のロックを開ける。行け、と。 「…オサムさん」 「ええから」 「…ありがと」 言って、裸足も厭わず駆けだして行く背中を。 見送った。もう、手の届かないものだ、と言い聞かせた。 予感がする。現実になる予感。 「……蔵ノ介」 なにより愛しい弟。 ばいばい、なにより可愛い子。 なにより愛しい、大事な、俺の愛し子。 それでも、せめてずっと兄でいさせてくれ。 そう願って、倒したシートに寝そべる。 あの子が大事だから。 あの子の幸せを前に、自分の幸福なんか選べない。 あんな子供に、人生を狂わされたと、笑えばいい。 それでも、俺にとって、あの子は。 なにより、なにより大事な、宝物だった。 倉庫の向こうの海の岸。 有刺鉄線の向こうに佇む背中は間違いなく、彼で。 「千歳!」 叫ぶ。 驚いて振り返った顔が、泣きそうに歪んだ。 「千歳…なんで、なんで自由にするん…。なんで学校辞めるん!」 「………」 千歳は俯いて、嗤った。自分を。 「…俺は、ほんなこつ卑怯もんたい」 「…千歳?」 「…大事なもん、閉じこめて、傷付けて、…愛されとったなんて、気付かんで。 あんな、…真っ直ぐな愛に、俺は答える資格…なか」 「…それを、決めるんは俺やろ…!?」 「…探して、くれとったと…白石?」 「…当たり前やろ」 「…大事な、部員やから?」 「…お前が、大事やからやろ…!」 金網を掴んで、必死に揺さぶった。 「お前が、好きやって…俺言うたやんか…!」 「……ほんなこつ、白石は、眩しかくらい、…綺麗と」 不意に、とても優しく彼は微笑んだ。 歩み寄って、金網越し、白石の手に指を絡ませる。 「…綺麗で、綺麗で…、美しか…。 白石…ほんなこつ…」 「…愛しとうよ」 「…千歳」 「愛しとう…。誰より、なにより…好いとうよ…。 ほんなこつ、愛しとう。…そう、その思いだけ伝えられて、俺は、よかね」 「…千歳…!?」 白石は、ちゃんと幸せにならんといかんよ、そう笑って千歳は背中を向けた。 遠ざかっていく。 どうして。 なんで。 資格なんて―――――――――――――要らない。 がしゃんと鳴った金網に、千歳が反射で振り返る。その瞳が見開かれた。 金網をよじ登る白石の姿に、青ざめて駆け寄る。 「白石! よさんね! 手…足が…っ!」 「っ…!」 と、と千歳の傍に降り立った白石の手も、足も有刺鉄線で傷ついて血塗れだ。 「白石! なんでこげんこつ…!」 思わず傍にしゃがみ込んだ千歳の腕を掴む。 「…いかんで」 「…白石…?」 「…傍おって…いかんで千歳…。 好きや…資格なんかいらん。欲しいなら、これから作ればええ…。 やからいかんで…傍おって…好きなんや…!」 そのままその首に腕を回してしがみつく。 「…千歳…!」 「…なんで、そげん…」 「…俺は、お前が好きや…。何遍言うたら…信じてくれんの…。 あの部屋で言ったことが…ほんまやのに…!」 『閉じこめられたままでいい。お前に優しく触れてもらえるなら』 しがみついて、見上げてくる潤んだ瞳に引き寄せられるように、口付けていた。 一瞬強ばった身体は、すぐ弛緩してもっとと強請るように腕を強くする。 離した瞬間、不安げに見上げる瞳は、間違いなく自分だけを映していて。 「……俺、…俺」 「…千歳…」 「…俺、白石んことば…好いとう…。傍…おりたか…優しくしたか…!」 「…おって。…傍にいて」 「…ほんなこつ…? ほんなこつ、俺でよかと…? オサム先生じゃなか。…俺でよかの?」 「…言うたやないか」 白石は涙を拭いながら、はっきりと口にする。 「…オサムさんより、…お前が好きやって…」 「白石…!」 愛しくて、愛しくて抱き締めた。 触れる呼吸、伸ばされる腕、見上げる瞳。 全てが欲しい。 今、全てが欲しい。 白石、と繰り返し呼ぶ。見上げる瞳が、柔らかく微笑む。 見つめ合って、どちらからともなく唇を重ねた。 「…好き」 「…俺も…ほんなこつ…世界一…好いとうよ…」 もう一度、抱き締めて、ただ願う。 これが最後でいい。 この人を、俺にください。 この人だけを、俺にください。 ハンカチで応急処置をした白石を背負って、抜け道から道に出る。 待っていた渡邊が顔を出したので、そのまま白石を預けた。 「…一緒に、乗ってよかとですか?」 「ああ、かまへん」 「…先生、俺を殴らんとですね」 「後で殴ったるわ。学校辞めようとしたことについてな」 「…はい」 くすぐったくて、笑う。 「…先生」 「ん?」 渡邊に視線を向けて、助手席に座った白石の肩を抱く。 「…約束、します」 「なにをや?」 「…守ります。俺が。言うの、遅くなったとですけど」 泣きそうに、見上げてくる白石の手を、しっかりと握って言う。 「…一生分、守るとです」 「…うん。頼んだわ」 「…はい」 伸ばされた腕に逆らわず抱き締めて、背中を撫でると、後ろに乗り込んだ。 車はすぐ走り出す。 振り返る翡翠の瞳を見つめて、笑うと彼も笑った。 キミは、有刺鉄線の向こうに咲く花だった。 届かないと、諦めた俺に、 有刺鉄線を越えてくれたのはキミだった。 だから、もう阻むものはない。 だから、抱き締めて、枯れないよう守るよ。 ずっと傍で。 ―――――――――――――一生分、守るよ。 →後書きというか言い訳 |