「………あつ」
ぽつりと同級生が漏らした言葉に、今更言うなや、と白石は肘をこづいた。
「わかっとるんやけど…年々暑うなりよるから…もうイヤや俺」
「沖縄はもっと悲惨やでー」
「そやな」
今日は午後から部活だったが、夏休みの補習に呼ばれた謙也に付き合って、白石は午前のうちから学校に向かっていた。
―――――――――千歳が九州に帰って、二度目の夏が来た。
高校二年の夏は容赦なく、彼がいないのに、自分たちは当たり前に全国を目指す。
今年は千歳も、金太郎もいなかったが強敵になりうる学校も似たようなものだった。
青学はあの越前リョーマはまだ中学三年で、卒業後すぐ外国に発つと聞いた。
部長だった手塚はとっくにドイツに留学していて、氷帝の跡部も留学していて既に日本テニス界にいない。
さすが王者というべきか、立海は幸村・柳・真田のビッグ3は誰も欠けていないが、彼らも高校を卒業すれば外国留学も視野にあるらしい。
(とりあえず立海破ることが目標やなぁ…)
沖縄の比嘉出身の部員たちは上の高校に進み、彼らの巣立った後の比嘉は全国常連となって新しい。彼らの進学高も去年、今年と全国進出が決まっている。
だが自分たちは自分たちのテニスをするだけだし、それで勝てばいい。
―――――――――勝ったもん勝ちや。
かつての顧問の言葉は、誰の胸にも生きている。
誰も言わないが、同じ筈だった。
… 千歳は、遙か九州で、今もきっとテニスをしている。
去年、九州ブロックは沖縄に征され、千歳のいる学校は全国に来なかった。
今年はどうだろう。
会ったところで、今更愛の語らいもなにもない。
―――――――――終わったのだから。
あれは、終わったのだ。
あの時間も、恋も、切ないおもいも、もう。
だから、あの胸に抱かれることは二度とない。
だから、会ったって会わなくたって、変わらないけれど。
「そや白石ー。休みの間、部員増えてかまわん?」
「増える? 誰や?」
「侑士。あいつ、ほら氷帝行かんかったやん。今の高校のテニス部とうとう廃部になってしもて。腕鈍るーって。四天宝寺顔出してええかって。あいつ休みずっと大阪おんねん」
「ああ。侑士か。ええんやない? あれに限ってどっかのスパイなわけあらんし。
ええよ。あとでセンセにも言っとく」
「助かった。流石部長。レベル4ってとこやんな」
「なんやそのレベル4て」
「中二、中三、で高一、高二の今年と四年部長やってんやん。白石。やから」
「……あれはないやろなぁ…。一年で部長やれて…。おかげでめっさ大変やったちゅーの。
幸い高等部は先輩みんな中学からの知り合いやから寛容やったけど」
他やったら大変やったで。
「まあまあ、光なんか勝手がわかってやりやすーとか言っとったやん」
「あれはいい加減あの棒読み具合なんとかせんとな…」
「とてつもなく腹立つ具合やんなぁあれ…豆ぶつけたりたい」
「なんで豆」
「節分で鬼やらせて」
「今は八月や…」
木々の隙間から日差しが漏れた。目を細める。
あまりに、暑い。
どうして、繰り返し思い出すのだろう。
夏が来る。来ると思い出す。
千歳がいて、金太郎がいた。あの、――――――――一番暑かった夏を。
「侑士、四天宝寺来ればよかったんに」
「あーそやなぁ。今からでも遅くないやろなぁ。言ってみるか」
謙也の相づちを遠くで聞きながら、白石は遠く、太陽を見上げた。
イカロスのように、近づけば焼かれる容赦ない光は、どこかあの男に似ていた。
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1-[キミの声で キミの腕の中で]
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部活開始までまだ二時間はある。
なのにコートには既にちらほらと部員の姿があった。
まあ、もうすぐ全国だ。無理もない。
そう考えると、部長の自分が遅れて来たようでなんだか申し訳なかった。
校門をくぐってきた白石と謙也を見つけて、既に自主練目的で来ていたらしい財前が二人がコート脇にたどり着くのを待たず駆け寄って来た。
「おー光。どないした?」
「部長、なんなんスかあの人」
「…俺はスルーかい。いっぺん豆ぶつけたろかほんまに…!」
「やから今は八月や謙也。で、あの人ってなんやねん財前。
まさか侑士もう来とるんか?」
「ユウシ? ああ、謙也さんの従兄弟? ちゃいますよ。
あの人!」
九州おるんとちゃうんですかと財前が指さした先のコート。
そこに部員に奇異な目で見上げられている過ぎた長身は、かつてよく見慣れたものよりまた高くなっている。
「…嘘やろ…アイツっ」
謙也がそう漏らした横で、白石は呆然と口が開かなかった。
(―――――――――なんで)
その長身が、こちらに気付くなりコートを飛び出して三人の元にやってくる。
「さっき、いきなり来て、部長のこと聞くからなんや思うて…。
連絡取ってはったんですか?」
財前の声に、かろうじて“いや…”と返す。
携帯は、高校に入ってすぐ変えた。千歳には、番号を教えていない。
連絡がしたいなら、手紙だってあったが、手紙の一通すら来なかった。
なのに、何故。
「白石!」
見慣れていた筈のへらへらとした笑顔が緩んで、どこか見知らぬ人の顔になる。
そのまま強く両腕に抱きしめられて、白石はなんの反応も出来なかった。
もう、二度と抱き締められないと思っていた腕。もう二度と、抱き締めてはくれないと思っていた腕。諦めて、捨てた筈の腕の中は、あまりに心地よく、不覚にも泣きそうになった。相変わらずの、懐かしい彼の匂いが鼻孔をかすめた。
泣きそうになる思いを堪えて、呼ぶ。
「…千歳」
呼ばれたことが余程嬉しかったのか、千歳は昔よりさらに大人びた顔を破顔させて、さらに強く抱き締めた。
「会いたかったばい。白石」
それが、全ての答えのような気がした。
二年前、九州に帰って来いという両親の言葉に悩んでいた千歳の背中を押したのは自分だった。
いらんから、帰れ、と。
千歳は、白石と離れるんだけはイヤたいと言ったが、その意見も丸め込んだ。
阿呆、と。連絡手段なんかあるやろ、会いにだってこれるんやし、終わりやないんやから帰ってやれ、と。
終わりを白石が示唆したわけではないとわかった千歳は、九州の高校を受けた。
卒業したら大阪に就職するばい、待ってるばい。と笑顔で空港を発った千歳を一方的に切ったのは自分だった。
携帯を変え、住む場所も“一人暮らしがしたい”と無理を親に言って実家を出た。
手紙は来ていない――――――――今の住処には。
手紙は、来ていた。実家に。
十日置きに、細かく日常の詳細を綴った、お世辞にも綺麗ではない字で。
文末の言葉はいつだって同じだった。
“テニスば頑張ってると? 俺も頑張ってると。
早く会いたい―――――――――愛してる
千歳”
電話も繋がらず、返事を一切出さないで。
それでも、彼は変わらず自分を思っている。
泣きたくなる郷愁はいつだって白石を責めて、見返す度にすぐに九州に行きたい衝動に襲われる。
メモリから消した彼の番号は、褪せることなく記憶にあって、電話ならいつだって出来た。
しなかった自分は、もう半分意地だった。
未来の見えなかった中学時代に、持ってしまった関係を間違ったものだと思って、高校から正しい人生を歩もうと決めた。
部活に励んで、勉強を頑張って、良い大学に行って、いつか親に立派に紹介出来る彼女を作って。
正しい人間になろうと思い、自分は千歳との記憶を、間違ったものとして蓋をした。
正義という名で裏切った。
親になにを強要されたわけでもなかった。千歳とのことを気付かれて責められたわけではなかった。関係を知っていた謙也は、それこそ白石に言い募ったけれど、白石の頑な意志に折れて、最近はもう千歳の話題を出さない。
それでも千歳からの電話に、自分の近況を知らせているのだろう。
千歳からの手紙は、そうでなければ知り得ない白石の生活に触れることが多々あったから。
その手紙が途絶えて、自分から切ったくせに死ぬような想いを味わったのはたったの三週間で、今日彼はとうとう会いに来てしまった。
相変わらずの馬鹿力で自分を抱き締めて、会いたかったと繰り返す千歳の愛情に嘘はなく、突っぱねる気力もなく、ただ抱き締められていた。
今日やろうと考えていた練習メニューが綺麗さっぱり吹っ飛んでしまったことにだけ、阿呆唐突すぎんねん、と文句を言っておいたがかすれ声になって、逆に嬉しげに笑われてしまった。
「千歳、お前身長伸びたなー」
部活を結局見学していった千歳は、泊まる宿がない、と言って白石のマンションに泊まるつもりだ。
帰路で謙也に言われて、千歳はけらけらと笑った。
「あ、俺が大きくなったとか? 謙也がちっちゃくなったんじゃなかとね?」
「阿呆! 俺かて伸びたわ!」
「何センチ?」
「……………………」
「五センチ、やんなぁ? 謙也」
「言うな白石!」
「なんばい。二年で五センチは伸びたと言わんとよ?」
「千歳! 死なす! お前何センチや!」
「俺? 今215センチ」
「げっ」
白石もそこまで高いと思っていなくて、さすがに驚いた顔を向けてしまった。
「………銀も伸びる伸びる思たけど、お前には敵わんなぁ」
「そやな。お前怪物や。怪獣チョモランマや」
「ひどかね…。せいぜいエッフェル塔にして欲しか」
「どっちもワールドワイドやろが……」
「白石は?」
「…俺? 190センチ」
白石自身、180代で止まると思っていたらジャストで190代に行ってしまって、まあテニスに有利だが確かに困るなとも思った。
マンションの扉の高さは割と低い。
よく頭をぶつける羽目になって、下げる癖が未だに身に付かないのだ。
この間中学に顔を出しに行ったら、オサムは“白石お前でかなったなぁ…”と言って謙也に“俺は違うんかい”と怒られていた。
「千歳、お前マンションあがったら頭気ぃつけや? 俺ですらぶつけるんやから、お前余計や」
「俺は中学で190あったたい。もう癖になっとるよ」
「さよか…」
確かに中学時代、彼が教室の扉に頭をぶつけたところを見たことはないが。
白石が借りているマンションの部屋は四階で、セキュリティのしっかりした場所だ。
親がそうでもないと妥協しなかったのだ。なにをって、一人息子の一人暮らしに。
これが遠くの大学を受けた大学生の息子なら違うだろうが、白石は高校生で、学校は地元だ。
千歳はなるほど言うとおり頭を下げることに馴れているのか、意外と低いマンションの扉に一度もぶつからず白石の寝室までやってきた。
「こら、ここまでくんな。先に食事やし、お前は居間で寝ればええ」
「ふうん?」
気のないように(財前のようだ)返事をした千歳は、寝室の壁にもたれかかって座ってしまった。
おい、と繰り返した白石に、笑って言う。
つめたかね。と。
「久しく会った恋人に、別ん部屋で寝れいいよーと? 寂しか。俺は起きた時に白石の顔が見たかよ」
そう直球で言われると、照れるしかないが口には出せなかった。相変わらず恥ずかしいやつ。
「……ほな、寝る時はここでええ。ただ、今はご飯が先や」
「ご飯は後でええとよ」
「俺は部活して腹減ってんや」
頭ごなしに叱る母親のように言って、寝室を後にしようとした白石の背中に声がかかった。
呼ばれて振り返ると、千歳は腕を広げ、片手を白石に差し出し足を開いて言う。
「おいで」
そこに、自分の身体の間に座れ、と言っている。
見慣れた光景がよみがえって、白石は今度こそ赤面した。
千歳はとかく、自分より小さかった白石を背中から抱き締めたがった。
背中から抱き締められるのが、白石も嫌いではなく、むしろ心地よかった。
一度、そのまま眠ってしまったことがあった。千歳はずっと寝顔を見ていて、起きた自分におはようとキスをした。
拒める筈はなかった。なんだ、結局自分は彼の思い通りで、彼が離れているならなんとか張れる意地も、彼が同じ空間にいれば簡単に甘くなってしまう。
すとん、と白石はそのまま千歳の足と腕の間に後ろ向きに座った。
そうすると予想通り、背後からぎゅっと抱き締められた。
「白石、やっぱり可愛か」
「190ある男子に可愛いなんて言うんはお前くらいや」
「白石は、ずっと可愛かよ?」
臆面もなく言って、その眼前にさらされた耳朶をぱくっとかまれてびくりとふるえた。
そういうことをされたことはよくあった。しかし今は二年ぶりなのだ。馴れない。
「……こげんことしとうは白石だけたいね」
「……言ってろ、阿呆」
「うん」
くすくすと笑う千歳が、そのまま服の中に手を差し入れてきて、流石に焦った。
「ちょ、今したいんか?」
「したか」
「……ま、待てや。せめてご飯…」
「俺は今ヤりたか」
「…………」
「今、白石を抱きたか」
「…お前、向こうで彼女あたりとヤってたんちゃうんか?」
別に溜まってへんやろ、と言ってしまってから意地の悪い言い方をしたと後悔した。
ここまで会いに来てくれて、抱き締めてくれた彼が、そんなはずはないのに。
どうして、こんな風にしか言えないのだろう。
落ち込みかけた白石の顎が背後から痛みさえ伴って捕まれて、千歳の方に向けさせられる。
その姿勢で見つめた千歳は、滅多に見ない真剣に怒った顔をしていた。
胸が痛くなった。
「それ、本気で言っとるなら俺は白石をはりかかんといかんね」
本気で言ってるなら怒る、と言われて、白石は顎を捕まれた姿勢で可能な限りうつむいた。
「………………………ぁ」
「…どっちばい?」
「…………………ごめん。意地悪言った」
その目の前から嘘など言えず、白石は素直に謝った。
それに、千歳はすぐ顔を弛緩させて笑うと、顎を離して軽く口付けてくれた。もう怒ってないと。
「すまん…。お前が、会いに来てくれて、…俺が切ったようなもんなんに、責めんで抱き締めてくれて……すごい、嬉しいのに……嬉しすぎて、素直になれん……。夢見とるみたいで、起きたら…お前やっぱおらんのちゃうかって………」
出た言葉は本音だった。一言なり、責められる覚悟をしたのに、彼は責めない。
嬉しくて、後ろめたくて。報いのように、喜ばせるだけ喜ばせて、彼が急にまたいなくなる予感に襲われるままに、白石は素直に吐露していた。
瞬間、骨が痛むほど強く抱き締められた。
一旦離され、身体の向きを振り向かされてもう一度抱き締められる。
そして、深く唇を塞がれた。
言った言葉に嘘はなくて、だから素直に侵入する舌が歯列を割るのを受け入れた。
久しぶりのキスに酔ってしまって、離された時にはもう思考はだいぶぼやけていたし、息も弾んでいた。今最後までしたいと言われて、もう断る言葉なんか浮かばない、むしろこっちから抱いてくれと言いたいくらいに。
「……白石、愛しとう」
愛しげに囁かれ、髪を撫でられて、自分の中に沸いた気持ちにおかしなほど揺れてしまう。
何故、離れていて平気だったのだろう。
こんなに愛しいのに。こんなに触れている今が心地よくて、先を強請ってしまいそうな自分がよく、よく二年も離れて平気でいられたな。と。
心のどこかで、自分で切ったのだから、それは許されないという思考もあった。
「…ご飯、食べると? 準備するなら手伝うたい」
しかしいざ離れていこうとされると、歯止めなんか利かなかった。
千歳の首にすがりついて、自分から口付けた。
そのまま千歳の首に舌を寄せる。
「……白石?」
少なくとも、自分から先の行為に積極的だったことは昔もずっとなかった。
キスまではあったが、抱きたいというのも、したいと言ってしかけるのも全部千歳で、自分は千歳と一緒にいられればよく、その行為は二の次だった。
しかし今は違った。欲しい。どうしようもなく、彼が欲しかった。
早く、自分以外を見てなどいないと、身体で教えて欲しかった。
「………抱いてくれへんの?」
そう問いかける。見上げる視線は、我ながら必死だった。
千歳は見下ろす姿勢で、びっくりしたように瞳を瞬かせる。
「……ご飯なんかええから、……抱いてや」
より直接的に強請ると、千歳も我慢など効かないのだろう。すぐ床に押し倒された。
普段なら鬱陶しいほど顔のあちこちに落とされるキスを今日は追って、唇を重ねた。
「白石…ほんなこつ可愛か…信じられんくらい、可愛か」
「…俺が、言うんおかしい?」
「…………だけん、ものすごく嬉しかよ。白石が俺んもんになってくれた時と同じくらい、嬉しか」
つまり、駄目もとの告白を受け入れてもらった瞬間と同じくらい、嬉しかった。と千歳は言っている。
顔が映す表情が、心底彼が喜んでいるとわかって、うれしさと共に恥ずかしさも沸いた。
思えば、自分から抱いて欲しいと言ったことなどなかったな。と。
こんなに喜ぶなら、言ってやればよかったとすら思った。
隠すように千歳の広く開いたシャツの鎖骨に顔を埋めて口付けた。
すぐに床に押し返されてシャツをはだけられて腕から抜かれる。
余裕なく下肢からも布の一切を奪われて、その乱暴で雑な所作に思わず。
「雑んなったな」
と言ってしまっていた。
前はもっと、脱がせる手から手慣れていた。
「そんなん当たり前たい。ずっと白石以外、こげなことせんかった。
その白石と離れとって、手つきが雑んなるんは仕方なか」
つまり、お前以外とヤる気なんかないんだ、と言われてしまえば白石に今の姿が恥ずかしいなどと言える筈はなく。
「………阿呆。言っとる暇あるならはよ犯せや」
照れ隠しに呟くと、聞こえた千歳が“ほんなこつむぞらしか”と耳元で興奮を滲ませて笑った。
「たまらんことば、言うてくれんね…。嬉しかよ…」
声には最早情欲以外のなにも滲んでおらず、白石もそれだけで感じるようにもどかしく足を千歳の足に絡めた。
指はすぐに下肢に降りてきて、彼にも余裕がないことを教えた。
→2−[最後の楽園]
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