壊れる。キミが壊れて。それでも。






最終折り返し地点をずっと探してキミを見つけた
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3-[背徳の失楽園]
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「ゲームセット。マッチウォンバイ千歳! 7−6」

 響いたコールを部員は信じられない思いで聞いた。
 既にこの部で白石は最強だった。
 千歳の強さは知っていた。
 だが白石を負かすほどとは思っていなかった。
「…強なったな」
 握手を交わしながら悔しげに白石が言うと、千歳はそれは頑張ったからたいと微笑んだ。
「……ああ、頑張ったんやな。正直、勝てると思うてた」
「いつまでも白石に負けっぱなしは悔しかよ」
「そうやな…」
 握手が離れると白石は他のコートの審判に行ってしまった。
 同じようにコートを出た千歳の元に謙也が近寄った。
「お前、強くなったなぁ…。白石負かすやなんて」
「そら、もう意地ばい」
「ふうん? けどすごいやん。俺、あいつがノータッチエース取られんの初めてみたわ」
「謙也って白石と昔なじみやなかったと?」
「昔はな。けど俺に負けなくなったころから、あいつがノータッチエースはなかった」
「そうなんか。ばってん白石は部長なんね」
「ああ」
「謙也クンー。次、俺と侑士先輩の試合。審判頼んますわぁ」
「光…お前“謙也さん”と“謙也くん”。どっちかにしろや」
「気分ですわ」
 さよか、と怒鳴って謙也は財前より先にコートへ向かってしまう。
 財前は昔より高くなった千歳を見上げて、疲れたような、睥睨のような息。
「………千歳先輩、あんた、なんで来たんスか?」
「白石に会いに」
「……それがほんまなら、なんでもっと早く来なかったんスか?
 ほんまに、………あんた千歳先輩?」
「どぎゃん意味たい?」
「…………別に」
 財前はふいっと顔を逸らしてコートへ足を向かわせた。
「俺は、単にあんたが恐ろしだけっスわ」
 その言葉は、水面の波紋のように千歳の心に残った。






「千歳? なに拗ねてんねん?」
 白石のマンションに帰って、千歳が浮かない顔をしていることを気付いていたのだろう。
 白石はようやくそう聞いた。
 千歳は無言でその身体を抱き締めた。
「…千歳?」
「白石は、俺んもんたい…」
「…………」
 白石は黙って両腕を千歳の背中に回す。強く、力をこめた。
「……うん」
「…俺んもんたい」
「……うん。それが、なんや?」
「…………怖か。白石が、おらんくなるような気がすったい」
「………いなくならんよ。もう二度と。お前置いて、いなくならん。
 ………なあ、千歳。そのまま抱き締めててや。俺のこと、いるって理解ってや。
 ……千歳、好きやで」
 囁く声に、千歳は腕の力を込めた。
 自分は、領分を侵していないだろうか。
 領分を侵している。そんな気がした。財前の言葉に、突きつけられた事実。
 それでも目の前の身体は最早手放せなかった。
 放せる筈がなかった。
 こんなにも、愛しい人。愛しい身体。愛(かな)しい思い人。
 絶対離さない。そう、彼が自分を捧げると言った時に誓った。
 二度と、離すものかと。
 二度と、激変に彼を奪われてなるものか。
 彼は、俺のものだ。誰がなにを言っても。
 彼は、俺のものだと。
 だから、何度でも好きだと言って欲しい。
 抱き締める腕を強くして、唇を塞いだ。
 拒まず、素直に受け入れる白石の身体をかき抱いた。
 何度も角度を変えて口付ける。
 思わず身を引いた白石を追って、壁にその身体を押しつけ、上から覆い被さる。
「……したいんか?」
 性的な意味合いを濃くした口づけに、頬を紅潮させて白石は千歳を見上げた。
 すぐにでも押し倒したい思いを堪えて、囁く。
「…欲しか」
「…………千歳」
 白石が腕を伸ばして千歳を引き寄せる。いいよ、の合図に千歳は更に深く唇を貪った。
 そのまま抱き上げてベッドに運ぶ。
 おとなしく千歳の首に伸ばされて捕まる腕が、とても愛しく、二度と離さないともう一度誓った。





 それから何日かは、何事もなく過ぎた。
 千歳に白石は酷く甘えたし、それは嬉しすぎるほど素直で。
 千歳は何度も好きだと口にした。
 白石の微笑む顔が、傍にあることが幸福だった。


 そしていつしか、忘れていた。
 自分が    だと―――――――――――――――。
 忘れていなかったかもしれない。
 それでもいいと思ったのかもしれない。
 自分の世界を捨てても、彼が欲しかった。
 彼の傍にいたかった。
 彼がいるなら、世界なんか惜しくなかった。



 だから願った。
 邪魔しないでくれ。
 俺の邪魔をしないでくれ。

 これ以上、邪魔しないでくれ。




「白石、今日部活なかやろ?」
 出かける準備をしていた白石に、千歳はパックジュース片手に聞いた。
「ああ、ちょお用事」
「俺も行ってよか?」
「ええよ。喜ばれるで」
「…?」
 千歳は首を傾げた。
「ほら、準備しなや」
 しかし白石は上機嫌に招くので、疑問を抱かず支度を始める。
 今思えば、浮かれていた。
 あれ以降財前はおかしなことを言わなかったし、白石は千歳に依存といっていいほど甘えてくれていた。
 不安はなく、ただ満たされていたから。

「あー、懐かしわぁ」
 白石がとん、と校門の前に立つ。
「ほら、千歳。四天宝寺中。俺らの母校」
 目的地はかつての母校だった。
「金太郎が相手してくれ言うてなー。あいつも身長伸びて強うなって。
 けど部長なんに相変わらず暴走すんねん。副部長が可哀想や」
 くすくすと笑って白石は校門をくぐる。
「オサムちゃんにも会うてこ。もうすぐ三十路やって嘆いてんや。
 そしたら千歳がいるってわかったら喜ぶわー」
 そのまま歩きかけて、不意に振り返った。
「…千歳?」
 千歳は一歩も校門前から動かない。
「…?」
 いぶかしんだ白石が戻ってきて、千歳を見上げる。
「どないした?」
「…」
 その顔は、青ざめていた。
 まるで、イヤな現実を突きつけられた被害者のように。死刑を宣告された罪人のように。
「……千歳………?」
 その異常に、白石は茫然としながら、不安になってその手を握った。
 冷たい。
「…イヤやった? …帰るか?」
「……たい」
「え?」
「…」
 千歳は青い顔で、白石を引き寄せてかき抱く。

 邪魔しないでくれ。

「帰りたい」
「……わかった。電話して謝って、帰るか」
 白石は理由も言わない千歳を責めず、携帯をポケットから取り出した。
 わけがわからないだろうに、なにも言わず従う白石を見て、千歳は願った。
 早くここから去りたい。
 お願いだから、彼を奪わないで。

 もう一度、俺から彼を奪わないで。


「お、白石!」
 鳴った声に、身体が震えた。
 鼓動が、早鐘のようになり始めた。
「…オサムちゃん」
 携帯に手をかけていた白石が、校門から白石を見つけてやってきた渡邊を見て驚く。
「さっきお前が見えてなー。はよ来いや。金太郎が待ってんで」
「あ、ごめん。今日はやっぱり帰ろ思って」
「…なんでや?」
「や、千歳が……」
 白石の言葉に、顧問は目を見開いた。

 驚愕の顔のまま、白石の背後で固まる千歳を見上げた。

「………嘘やろ? あり得へん」
「オサムちゃん……?」
「千歳……? いや、千歳がここおるはずは……」
「オサムちゃん…? どない、…意味?」
 白石がただ疑問を向ける。
 顧問の顔はそれほど驚いて、あり得ないと告げる。
 早く、早く帰らないと。
 彼をこの男の前から連れていかないと。
 でないと―――――――――――――――。
 なのに身体がいうことを聞かない。

「…千歳は………、今日九州で、……母親の葬儀出てる筈やで………」

 渡邊の言葉に、白石はなにも言えなくなった。

「……あ、すいません。多分、余程ショックで俺んとこ来たんだと思いますわ」
 次の瞬間、白石はそう言った。
「でも、今日葬式で忙しいってさっきメール…」
「そないなもん、どこからでも送れるでしょ? ほな、俺帰ります。千歳、やっぱ顔色悪いし」
「おい、白石…」
「すいません、金太郎にまたって言ったってください」
 軽く会釈して、白石は千歳の腕を掴んで引っ張った。
 背後で、顧問の声が響いた。




 ばたんと強く締められたマンションの扉。
 密室になった白石の部屋で、白石は上着を脱ぐと、千歳に向き直った。
 そこには、朝までの柔らかさがない。
「…どういうことや?」
 テノールの柔らかかった声が、低く空気を這った。
「…………」
「どういうことやって聞いてるんや……。お前、お母さん死んだって……。
 前からおったよな? 何日前からお前おるんやここ。
 お母さん容態悪かったんか?
 なんで、ならなんで来た」
 ああ、だからイヤだった。
 あの男は知っていたから。
 だから行きたくなかった。
 彼が、気付いてしまうから。
「……そげんこと、どうでもよか」
「…っ……なんやて?」
「白石がおるんなら、そげんことはどうでもよか」
「…っ!」
 顔を強い衝撃が襲った。
 よろけて壁にぶつかる。
 利き手で思い切り殴られた。
「…お前……母親の死さしてどうでもいい?
 俺は…そないな大事されかたされたって嬉しない!」
「……だけん、それが本当ばい。俺はお前がおればええ!」
「そんなもんいらん! 阿呆や…!
 俺はお前に、お前生んでくれた人の命を引き替えに許されてたんか…?
 引き替えに愛されてたんか…? 引き替えに抱き締められて抱かれて、甘えてたんか……?
 そんな罪、許されへん…!!」
 どうしたらいい。どうしたら、伝わる。
 ただ、

 ただ、お前を失いたくなかったんだと。

 ただお前を永遠に失わずに済むなら、惜しくないって本当だって。

 ただそう願って抱き締めた。
 ひどく抵抗する身体を押さえ込んで、深く口付ける。
 抵抗に腕が胸を突っ張ったが、彼の力では自分を退かせない。
 力で敵わないならと蹴り上げかけた足を逆にはらって、体勢を崩した白石を抱えて床に押し倒す。
 冗談じゃない、と顔が青ざめた。
 お前の母親の葬式の日に、抱かれたくなどない。
 やめてくれと願う彼の顔を、見下ろしてなお強く抱き締めて服を取り払う。
「……や」
 喉から出る悲鳴が、これから行われる背徳の重さに震えて張らない。
「……や……っ…。………………へん」
 余裕なく下肢をえぐった指に、悲鳴をあげながら紡ぐ。
 頬を、自分の代わりのように涙が流れる。
「……こないな……許されへん………っ………イヤや……っ」
「……白石」
 それでも口にしてしまう。
 願ってはいけない言葉を。

「愛しとう」

 その瞬間、白石は壊れるように泣いた。
 零れる声は貫かれた故の嬌声ではなく、嗚咽の悲鳴だった。




 意識を失うまで抱かれた顔は、ひどく白く、涙の跡が痛かった。
 ベッドに横たえると、千歳はその唇に口付ける。
「…白石」
 呼ぶ。
「白石…」
 じゃあ、他に方法があったのか?
 あるなら、俺が聞きたい。
「…白石…っ」
 涙がこぼれる。
「……白石…っ!」
 彼を


 彼をもう一度、死なせない方法が。


 あるなら俺に教えてくれ。
 あるなら、世界を狂わせて叶えてくれ。
 他に欲しいものなどない。
 だから。


「…白石…好いとう……っ……!」


 俺から、もう一度白石蔵ノ介を奪わないで―――――――――――――――。






→4−[凍てつく真実という名の戯曲]

















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