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4-[凍てつく真実という名の戯曲]
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雨が降る。
ああ、そういえば、三年前の母親の葬儀の日。
雨が九州には降っていた。
あの日、大阪でも雨が降っていたのか。
おぼつかない足取りで道を歩きながら、そう思った。
浅ましかった。
それでも俺は、白石を離すつもりはなかった。
二度と、失いたくないと思ったからここに来たんだ。
離さない。
たとえ、これで彼が自分を愛さなくなったって。
たとえ、これで彼が壊れてしまったって。
彼が、生きて傍にいるなら、俺はよかったんだ。
「千歳…!?」
呼ばれて振り返る。
「…謙也」
「お前、雨ん中なにやっとんねん! ずぶ濡れやんか…!」
駆け寄ってきた謙也は、今にも心の折れそうな千歳を見て、察したように家に招いた。
「今日は侑士、光ん家出かけてるから、邪魔入らんよ」
風呂をあびて、父親の服を借りた。
謙也の部屋で、無言で居続ける千歳の髪を、タオルで拭いてやって、謙也は伺う。
「……謙也」
「ん?」
「……タイムトラベル……って、信じると?」
急な言葉に、謙也ははぁ?という顔をした。
「俺も信じとらんかったとよ。そんな漫画みたいなって。
けんど、…事実なんばい」
「…なにがや」
「………俺、三年後の未来の千歳千里たい。三年時間の違う白石に勝てて、当たり前たい」
謙也は、一瞬目を見開いて、それからタオルを千歳の肩にかけた。
「それは、悪趣味か? それとも、マジか?」
「マジとよ。…悪趣味やったら、楽たい」
謙也はポケットから携帯を取り出した。
そしておもむろに電話をかける。
千歳の携帯は、声を上げない。
「…あ、すまん。今どないしとるって。あ、そか。そらすまんな…。
そら、辛いな。すまん。またかけ直す。ああ、…お母さんに、お悔やみ言うといて」
ピ、と鳴って通話が切れた。
「…ほんまらしいな。今の千歳に繋がったわ」
「…だから言うたけん」
「…ほんまに、二十歳の千歳なんか」
「そうたい」
「…なんで、…仮に、過去にこれるとして、なんでここにいる」
「……………俺は、大阪に戻らんかったと」
「…昔?」
「そう。ほんなこつ…高校卒業したら、白石のところ帰るつもりやったと。
すぐ、会いにいくつもりやったと、二度と離れんつもりやったと。
白石が俺を捨ててても、もう一度好きになってもらおうって、諦めとらんかった」
「…………」
「けど……俺は、…大阪に、帰ってない」
「…なんでや」
「…………」
千歳は、喉をひくっと鳴らした。
その両目から、涙があふれ出した。
「……三年前……今の今月。……白石が………死んだからばい」
謙也は、言葉を失った。
「俺は謙也から聞いて、嘘思った。冗談ばいって。すぐ大阪向かって、いたのは…もう冷たくなった白石で……。
……自殺、って。目撃した謙也が……歩道橋から飛び降りるのを見たて……」
即死だったて。
「…………」
「だけん…過去に来れば、白石を生かせる思うたと。自殺せん未来に変えちゃるって」
「……そう、やったんか」
「けど…ほんなこつはわかっちょった」
「……」
「俺が、未来変えても…その未来は、俺の未来に繋がらんたい」
「……どない意味や?」
「平行世界たい。パラレルワールド。
選択肢を人は繰り返して、選んだ選択肢で未来一つ変わるたいね。
その選択肢から、未来が枝分かれするたい。
…選択肢が変わったら、違う世界が生まれて、そこに繋がって……。
どうあがいても……生きてる白石に、…俺は、俺の世界では会えなか………」
嗚咽が喉を覆った。
「だけん…俺は忘れた。未来から来たってこと。これが束の間ってこと。
ここに過去の俺もおるってこと。俺がこのままおったら世界自体壊れるかもしれんってこと。
…俺は、世界捨てて、世界がそれで歪んで壊れても、…今の白石の傍に死ぬまでいようって誓ったんね」
「……そうか」
「けど、白石は、わかってしまうたい…。
ほころびに気付かれた…。あいつが、俺の実家に電話したらアウトばい。
…俺は、………白石が欲しかよ…」
「謙也、俺は白石が欲しかだけたい。生きて、笑ってる白石の傍にいたかだけたい。
抱き締めていたいだけたい。他になにも望まない。
だけん…………白石を、二度も失ったら…俺は、生きてかれん………!」
謙也はただ泣く千歳を抱き締めた。
大きな身体は恐怖と喪失に震えていた。
彼は、壊れるほど悲しんだのだろう。
彼の世界で三年前、白石が亡くなった時に―――――――――――――――。
「………」
意識が不意に浮上した。
身を起こしても、見下ろして、起きたとと笑う顔がない。
「…ちとせ」
帰った、のだろうか。
俺が、あんまりに責めるから。
「ちとせ……」
違う。そうじゃない。
ただ、…俺はお前を失いたくない。
傍にいたい。
母親の死が悲しくて来たなら、言ってくれれば一緒に九州へ行った。
お前のためなら、練習の二日や三日、全然惜しくなかったのに。
ただ、言ってくれなかったことが悲しかっただけなのに。
「…ちとせ」
俺は、阿呆や。
また、こうやって、俺は馬鹿をやって千歳を失う。
今度こそ、あの腕を失うのだろうか。
今度こそ、捨てられるだろうか。
言ったじゃないか。
「…言ったやろ……」
誰もいない空間に呟く。
「俺の人生、お前に捧げるて…あげるて…一生分、…あげるって」
涙が流れた。
「……やから、傍にいてて……」
喉が鳴った。
「……二度と、…離さへんって………言ったやろ……」
嘘吐きと、なにも知らない心が詰った。
嘘吐きと、ただ思った。
傍にいたかった。
愛していた。
なにも惜しくないほど、愛していた。
彼さえいれば、生きていけた。
玄関のチャイムが鳴る。
場違いに。
「…………」
出たくもない。
もう一度鳴ったチャイムが、途切れた後に扉が開かれた。
「…ちとせ?」
帰ってきてくれたのだろうか。
それなら、もう責めないから。
傍に、いて。
もう一度、俺を抱き締めて。
「…千歳!」
玄関から入ってきたのは間違いなく千歳だった。
「千歳…」
心底安堵して呼ぶ。
「……白石」
しかし、自分を呼ぶ声は、ひどく冷たかった。
「…ちとせ?」
「白石、…なんね。その格好」
言われて、シャツ一枚だと気付く。
あちこちに情事の跡があって、白い肌は鬱血の跡が目立った。
だが、これがなんなのだろう。お前がやったんじゃないか。
「誰に抱かれたと…」
「…?」
「誰たい……。ほんなこつ、俺がどうでもよかなったんか」
「……千歳……?」
大股で歩み寄った千歳は、白石のシャツを掴んで、呼吸が苦しいほど引っ張った。
「…なんで……俺が、どんだけ耐えとったと……なんに、白石はもう俺がどうでもよかなったけんね…?
…やけん……っ」
「……………」
唇をかみしめた千歳は、低く唸ると、すぐ白石を離した。
「なら、……よかよ」
「…千歳……?」
振り返った顔は、ひどく冷たい色をして白石を刺す。
「…俺も、白石んことは忘れる。もう、会いにこん」
「…ぇ」
「俺も、……もう、お前は…いらん」
告げて去っていく背中に、なにも言えない。
追えない。
意味が、わからない。
(なして………?)
イヤや。
認めたくない。
こんな。
もう捨てへんから。
全部くれてやるから。
…傍にいて。
プライドも正義もいらない。
全て捨てて、願うから。
服をすぐ整えて傘も差さず飛び出した。
ただ、愛していると伝えたかった。
「……」
ようやく泣きやんだ千歳を見遣って、謙也はほら、と携帯を渡す。
「…?」
「白石に電話して、謝れ。俺も手伝うたるから」
「…謙也」
「あ、お前がここにおっていいって意味ちゃうで?
ただ、もう少しはおってええし、未来やって、ほんまお前んとこに繋がらんとは限らんやろ。試せ」
「…謙也」
千歳は頷いて、携帯を受け取る。
フリップを開いて、一瞬なにげなく流していたものに鼓動が止まった。
「千歳?」
「…今日、八月十九日!?」
「あ、ああ…」
「……」
青ざめた千歳は、すぐ立ち上がって玄関に向かった。
「千歳!?」
「今日たい!」
「…まさか」
「…白石が、死んだ日たい…。探して、捕まえてくる!」
「…俺も行く!」
傘を差さない身体は、重く布が張り付く。
歩道橋を駆け上がって、見渡せる範囲にあの長身がいないとわかって、身を少しかがめた。
すぐ、九州に帰ってしまったのだろうか。
首を横に振る。
「…まだや」
まだ、まだ諦めない。
諦められる筈がない。
あの声も、あの腕も、あの瞳も。
白石!
あの、呼ぶ声も。
あの抱いて、抱き締める腕も。
あの、優しく見つめる瞳も。
諦められっこない。
だから、九州に行けというなら追いかけて行く。
だから、もう一度笑って。
もう一度抱き締めて。
「…千歳」
お願いや―――――――――――――――。
「…し」
声が、聞こえる。
どこだろうと見回す。
歩道橋から遙か向こうの歩道。
信号に足止めをくらって、それでも呼ぶ謙也と、千歳の姿。
「…千歳」
なにか叫んでいる。
「……から」
「…千歳」
呼んで、ただその腕を願った。
「千歳!」
そこへ走りだそうとした。
瞬間、雨で濡れた歩道橋の地面が滑った。
「……ぁ」
バランスが崩れて、後ろに倒れる。
そこは、丁度階段だった。
落ちる。
見える筈はない千歳が、泣きそうに叫んだ気がした。
→5−[あなたの隣で歌うアリア]
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